心は第二の自然である (イッツ・オートマティック)

  • 自動性

ひとつ上のエントリで「自動的」という言葉を使っているけど、これは一般に無意識とか、反射とか、本能とか、または何か他の通俗的な一般に使用される心的な概念で説明される何かである。私が自動的ということで言いたいのは、認知がオートマティックである、ということである。この認知の自動性(そしてその高速性)、このことに最近本当に(一人で勝手に)よく驚いている。

この自動性ということを確かめるためには、自分に発生した情動や認知について「なぜ?」と問うだけでいい。たとえば「誰かに何かを言われてムカッとした」としたなら、これはひとつのきっかけである。そこで「なぜ俺はムカッとしたのか?」と問うのがスタートである。ここで例えば「あいつの言ったことが嫌味だったからだ」とかと答えてみる。そしたら更に問う。「嫌味とは何か、なぜあの発言が嫌味たらしいとおまえは判断できたのか、それはどのようにしてか?」 ここで例えば「ふつうの人はこういう状況でああいう事は言わないから」とか答えてみる。そしたら更に問う。「おまえは普通というデータをどこから取得したのか?自分がある状況に置かれていると、何に基づいて判断できたのか?脳内のどこにそうしたことを記憶、保持、計算処理している回路があるというのか?」これを繰り返すと段々不思議になってくる。

「はて、いったい誰がムカッっとしたのか?それは俺ではない。そんなことは俺は知らなかったからだ。ある状況で特定のことを発言されたら、不機嫌になってその相手に対して嫌悪の感情を持ってみよう、なんてことを決断したことは今まで一度もなかったからだ。つまりそうした計算は、俺のあずかり知らぬ所で、自動的に行われている(しかもこの計算は早い。ほんの一秒とかのオーダーで、自分が置かれている複雑な社会的環境の把握、相手と自分との間にあった過去の事象の総体へのアクセス、現在置かれている文脈の把握、言葉や表情が持つ過去全体の経験の中で位置づけ、などの処理が行われ、ムカッ、という判断が自動的に返される) 加えてこうした自動的な計算結果は驚くほど適切なもので、ある嫌な対応に対して「モフモフさせろー」でも「(;´Д`)ハァハァエロい」でもなく、その環境・文脈において適応的な意味で適切だろうと思える「ムカッ」という反応がちゃんと出てくるのである。そしてそうした計算に使用されている回路というのは、俺のあずかり知らぬ所で勝手に、自動的に生成・更新されている。はて、そうすると、いったい俺はどこにいるというのか?俺なんていないジャマイカ

これは本当に不思議である。しかし現にそうなっている。仏教はこうしたことを「無我」と表現したりした。

こうした状況を表現したものとして、ちょっとクサいけれども宇多田ヒカルの歌がある。たしかこれは宇多田ヒカルの最初のヒット曲だったと思う。

It's automatic
側にいるだけで
その目に見つめられるだけで
ドキドキ止まらない
(I don't know why)
Noとは言えない
I just can't help

「It's automatic」「それは自動的である」。加えて 「I don't know why」「なぜそうなるのか私には分からない」

心拍数が自動的に上昇する。なぜそうなるのか私には分からない。



関連エントリ

宗教、物語的認知、意味と規範(妄想なぜなぜメモ)

アメリカやヨーロッパで行われている宗教が持つ機能の科学的分析においては、主に宗教が持つ集団の統合機能が注目されている事が多いように思う。これはアメリカやヨーロッパという国(宗教を持ってないとハミ子になる国)の内部にいるから、それが重要に思うのかもしれない。

確かに排他的な一神教が流布している国では、宗教を持たないということは、精神生活の問題とは別に、日常的な社会的な生活の中で、実際的な困難を色々と生じるのだろう。

しかし宗教の最も基本的な機能は世界に対する物語的説明であると思う。人の認知は物語・エピソード的記憶を通じて、規範を生成し、物事に対する意味を付与し、判断を行なっている、と思われる。そうした意味の中には、己の意味、も含まれる。そうしたエピソード的記憶を通じないことには、規範も意味も判断も生成されない、と思える(データベース的情報は神経回路の状態更新につながらない、と思われる)。つまり、エピソード的な入力を受けて情報を更新し、そこから規範や判断や意味を出力する、そういう回路構造が脳内にあり、宗教・またはより広く物語は、そうした回路に作用している、と思える。

だから「物語ではないデータベース的科学」は、物語を求めている人々にとって無意味であり、嫌われるのである。


エピソード的な記憶には海馬、内側側頭葉周辺領域が関わっている、とされる。ある種の宗教体験や現実感喪失(完全の意味の喪失)が、側頭葉てんかんによって生じうるという事も、ある種の整合性があるように思える。

で、こうした物語的な認知、意味の付与などの機能はそもそも何のための機能なのか、というと、これはおそらく社会認知であると思われる。個体を識別し、行為の意味を捉え、集団の中でうまく泳ぐ、サルがサル山の中でサバイブする機能がエピソード的な記憶の機能が高度化することの始まりだったのではないかと思える。

あと現代の欧米における無神論論争で頻繁にテーマとなるものとして、道徳性、人を道徳的に振舞わせるのは宗教だ、という主張がある。日本のような国では、宗教持ってるやつの方がなんか怖いわ、という感覚が結構あるが、逆にあそこらの国では「神を信じないやつは泥棒でも殺人でも平気でしてしまう危険人物だ」みたいな考え方がかなりはっきりとあるようである。こうした考えはかなり混乱したものであり、実際に統計上も誤りであるようだが、宗教またはより広く物語が道徳や規範に対して持つ強みは実際ある、と思われる。それはその自動性である。物語は意味・価値・決断・規範を、自動的に生成する、という点である。これが強みである(同時に危険性である)。規範の自動生成というのは、単なる事実の羅列では実現できない、と思える。ロールズの無知のヴェールのような思考実験でも実現できないと見える。このことは、社会的認知の回路が、物語的インプットにのみ自動的に反応できるような構造をしているためだ、と思える。


関連エントリ

「淡路のサルには優しい遺伝子がある:読売新聞」

 兵庫県の淡路島に生息するニホンザルの集団は他の地域と比べて他者に優しい性質を持ち、「優しさ」に関係する遺伝子の構造にも、差があることを、京都大野生動物研究センターなどが発見した。

 遺伝子が、「社会行動」を左右している可能性を示す研究で、6日から名古屋市で始まる日本霊長類学会で発表する。

 同センターの村山美穂教授や大阪大人間科学研究科の山田一憲講師は、直径8メートルの円にエサをまき、サルの行動を観察。淡路島では群れの大半の180匹が集まって食べ、争いもほとんどなかった。一方、岡山県真庭市の集団では強いサルが弱者を追い払い、円内に入れたのは150匹のうち最大で20匹だった。

 さらに村山教授らは、ヒトやサルの出産などの際に増え、攻撃性を抑え寛容性を高めるとされるホルモン「オキシトシン」に着目。このホルモンの指令を受け取るたんぱく質の遺伝子に、個体によって違いがあることを見つけた。

(2012年7月6日15時17分 読売新聞)

オバケよりも怖いもの

昔、とあるド田舎で、小学校しか出たことのないおっちゃんに、夜中にキリリとした顔で言われたこと。


おっちゃん「おい、オバケは怖い。でもオバケより怖いものがある。知ってるか?」

俺「?」

おっちゃん「それは人間だ(キリリ)」

イジメ問題。汝、復讐せよ

イジメに関する報道が発生するたび、色々騒がれる。だが残念ながら、当然だけど、これは綺麗事では決してなくらない。これは闘争なのだから。

こうした問題に関する答えは簡単だ。復讐である。やられてる側に「おまえはあいつを殺してもいいのだ」とはっきりと教えるのだ。

ここで殺すというのは比喩ではない。

「自分の社会的生命、生物学的生命のすべてをかけるなら、おまえはあいつを殺していい。殺すことが出来る。」

このことをちゃんと教えるのだ。

闘争の女神は死を覚悟をした者にしか、微笑まない*1

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個人的には、人をイジメたこともあるし、人にイジメられたこともある。暴力沙汰のものというわけではないが。よく言われるように、人をイジメること、それは苦い思い出となる。己の愚かさを拡声器で自己宣伝するようなものだからだ*2。逆にイジメられること、それはショックである。そして強い怒りをもたらす。しかし、そこには同時に悪質なワクワク感も伴う*3。なぜなら、相手から受けた攻撃の分だけ、相手への攻撃が何も言わずとも正当化される、そういう本当に数少ない社会的場面となるからだ。つまり青信号である。やってよし。

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国際紛争や経済紛争の分析が、冷静に行える人も、個人間の関係になると突如として道徳だけを基盤において判断してしまうことがある。しかしそれは違う。混沌とした国際政治の中で、小国が大国から侵略を受けないようにするには、安全保障のネットワークに入るなり、核武装する他ない。「あの国のやり方は卑怯だ」とかいう道徳に基づく主張が有効なのは、道徳的違反に対するサンクションが実効性をもって機能している場合だけである。

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大人たちも日々いじめている。いじめのネットワークの中で生きている。私が100円ショップで驚くほど安い商品を購入するたびに、地球のどっかにいる極貧労働者の体を私はムチで殴りつけている。こうした大人たちが行うイジメは「私が直接 手を下したのではない」と自己欺瞞に陥ることができる複雑なしくみを用意した上で実行される。子供が誰かを殺すとき、直接殴る蹴るの暴行を加える。これに対し大人は、「私が打った弾が当たったのではない」と思える状況を用意した上で相手を銃殺する。つまり自己欺瞞のための複雑な仕組みを多数用意した上で行われる。

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こういう話は暗くなる。「愛だよ、愛」とか言いたくなる。でもアガペー的な意味での愛が機能しうるのは、人間が、お互いにどれほど最悪なものであるか、それを互いに共有できた後だけの事だろう。愛は絶望の果てにしかない。

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イジメの分析を行った本。興味深い。

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

この本は「万能感を感じることを目指す」といったイジメの動機の分析とともに、それをとりまく構造的分析も行われている。そしてある程度このエントリーの趣旨とも似ているが、学校におけるいじめをなくすには、当事者に普通の市民社会のルール(暴行は暴行として警察に引き渡すといった当然のこと)を実施することが重要だろう、としている。で、そうした考えの基盤にあるのが、「捕まる危険性を受け入れてまで、いじめてる奴なんてほとんどいない」という事実関係の分析だ。当エントリの趣旨である「復讐」も同様の背景からのものである。「相手に噛み付かれるかもしれない、いつかこの事が原因になって相手に復讐されるかもしれない、でもそれでもいじめるんだ!」そんな覚悟持ってイジメてるやつは、ほとんどいない。だからとにかく相手にリスクを与えることが重要である。どんな弱い人間でも、噛み付けば相手の耳を引きちぎれる。ボールペンを眼球に付き立てれば相手を永遠に失明させられる。おぞましいことではあるが、人は覚悟さえあれば、対個人に対して無力ということはまずありえない。ここが一つの重要なポイントである(国家対国家では一方がほぼ完全に無力であることはあるが、個人対個人ではそれはない。国家間紛争に例えるなら、これは「すべての国が大量の核を配備した状況で行われている紛争」と似ている。「その気になれば、どんな者も、望んだ他の誰かの生命を完全に奪い得る状況」、究極的にはそうした状況の中で行われているもの、それが個人間の闘争だからである*4。)

極限的な状況における道徳について、永井。

実際は殺していいのだ、という内容。というか「現に殺人が日々おこなわれている」、「現に殺すことが出来る」、この単純な事実に立脚して、偽善的な道徳に噛み付く。要は「俺は殺されたくない」というだけの話を「殺しちゃだめだ」という「善なる嘘」ですりかえてるのが、いわゆる道徳である、と。そして「殺してよい」または「殺すことが出来る」、この端的な事実は「邪悪な真理」、事実ではあるが危険であるがために滅多に語られないこと、として対置する。


死んだ彼に変わって今から滋賀県までイジメたやつを殺しに行くほどの気概は、私には「ない」。そう、まったく、ない。つまり私もただ傍観する。警察と同じように、教師と同じように。こうした欺瞞を論じた本、中島義道

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関連エントリ

関連リンク

*1:ちなみに自殺というのは、必ずしも逃走というわけではない。それは時に、より巧妙な形で放たれている、強烈な復讐である。

*2:私は大人になってから、古い友達から「おまえは昔、俺をイジメてた」と言われてショックを受けたことがある。小学生のころに、ということだった。それは一つの衝撃であった。子供は(私は)残酷だ。私は確かにそいつをからかい、侮辱していた、子供じみたものだが、ただ暇つぶしや娯楽のためだけに、そいつに対してどうでもいい挑発をよくやっていた。だからそいつに殴られて泣いたことが何度もある。そうしたことへたいした意味はなかった。私はそいつが好きだったし、今でも好きなのだが、相手の中ではそうした過去の出来事は、自分の中での位置づけとはまったく違うものだったのだ。それはショックである。

*3:闘争ということが、どれほど人を興奮させ夢中にさせるものであるか、これはあまり語られることがない。性的な愛の持つ興奮が頻繁に語られうるものであるのに対し、闘争の持つ興奮というのは正面から見据えられて語られることはあまり多くない。闘争というのは長期間継続すると疲れもする。しかしやはり、短期的にはこの上なく興奮させられるものであり、退屈からの逃避としてはこれ以上の方法はちょっとないように思われる。これは私達の神経系がどのような構造をしているか、そしてそれが歴史的にどのように形成されてきたか、そのことを如実に物語っているように思われる。我々の神経系はその生まれからして「血塗られている」。

*4:大人の社会で分かりやすいイジメが現れないのも、ほとんどこの理由によると思われる。統治技術の一つとして「生かさず殺さず」というものがある。これは「誰かを極限的な窮地に追い詰めれば、たとえ自分が政治的・社会的な意味で絶対的な強者だったとしても、それでも自分の命が危ない」、そういう了解を表しているものと思われる。つまり「窮鼠猫を噛む」、そのことの恐ろしさを表しているものと思われる。本当に誰かを追い詰める場合は、マキャベリに言わせれば、相手が絶対に復讐が出来なくなるレベルまで徹底して追い詰めなければならない。こうした例の一つと考えられるのが、中国の歴史の中でよく見られる「一族郎党皆殺し」である。攻撃が終わった時、そこにはもはや復讐を決意できるような存在が残されていない、という大胆かつ単純な方法である。

進化は今・ここで、私達に起きている

人間が進化の過程を経て生まれた生物だということに、多くの人は同意する。しかし実際そのことの意味はほとんど理解されてない、と思う。進化において重要なことは、それが今、現在進行形でリアルタイムで起きている、ということである。それはアフリカの奥地やアマゾンのジャングルにおいて奇妙な生物たちにだけ起きている現象ではない。進化は今・ここで、私達に起きている

中学生ほどの算数の能力があれば、この進化というメカニズムの普遍性とその恐ろしさはすぐ分かる。それは基本的には簡単な指数関数であり複利計算である。それはほとんど暴力的とも言えるものである*1。進化というメカニズムの普遍性を、哲学者ダニエル・デネットは、全てを溶かす魔法の薬品に例えて「万能酸(universal acid)」と形容した。デネットインテリジェント・デザイン(及びそれに惹かれるアメリカの宗教的大衆)を説得相手として想定して、進化についての本を書いており、そこでは人間の今・ここで起きている進化についてはあまり触れられていない。

しかし進化においてもっとも重要なことは、それが単なる歴史物語をつづるための概念装置でなく、これからの私達のあり方を予想するための具体的な理論である、という点にある。人間には遺伝的多様性がある。例えばある人は神経質であり、ある人はそうではない。またある人は知能指数が高く、ある人はそうではない。そしてある人の肌は白く、ある人の肌は黒い*2。こうした形質の多くは、各人が持つゲノムの塩基配列によって決定されている。つまりこれは進化の対象となる表現型のひとつなのである。これから人類の遺伝子プールにおける様々な形質の出現頻度は、どのように時間的に変わっていくのか。

人類の進化、これは今現に起きている事態である。そこで、ここで。

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

進化が綴る闘争の物語は、人間がその中を生きているような地位や承認をめぐる物語よりも上位にある。現在、(政治的な意味で)世界のヘゲモニーを握っているのは肌の白い人たちからなる集団である。彼らの政治的な優位はほぼ確実である。では白い肌が生物学的な勝者なのか、というと、こうした問いが単純に成立しない所に進化というものの深みがある。進化にはもともと勝者というものがいない。(個体数が)多いか・少ないか、また(形質が)残るか・消えるかだけである。進化というのは地位や承認の物語よりも、より上位に、もしくはメタな位置にあるメカニズムなのだ。今、バカスカと個体数が増えているのは、肌が黒い人たちである。貧困と暴力が荒れ狂う地域において、個体数が激増しているのである*3。こういう話題はあまりに危なすぎて、アメリカではほとんど正面から触れられることはない。しかしここにある興味深い亀裂は、人間とは何か、ということを考える上で、絶対に避けて通れない。

さて、進化というメカニズムがどこまでも普遍的なものだとして、それが何か?私達一人一人にとって、進化というメカニズムの最も最悪な所、最も嫌悪すべき所は「進化は幸・不幸を気にしない」という所である。進化というメカニズムは「数が増えるかどうか」だけを指標にして駆動される。生まれてきた個体の幸不幸なんて知ったこっちゃない、それが進化である。たとえばもしある人が「精神病」にかかり苦悩にのたうち回ることによって、周囲の同情を得て、周囲からの敵意が緩和され、結果として残す子供の数が平均的に増加するのであれば、進化というメカニズムは「躊躇なく」苦悩する個体を量産する方向へと働く。同情なし、待ったなし、である。これは実に恐ろしいことである。従業員が過労死しようが首吊ろうが、一切知ったこっちゃない、利益の額にしか注目しない完璧に怜悧な経営者、そういうものと同じである。進化は幸・不幸を気にしない。不幸が数を増やすのに有利ならば積極的に不幸を選び出しさえする。これは生まれてくる人間、生まれてくる感覚を持つすべての生物にとって、実に恐るべきことである。

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追記

  • しかし「進化は幸・不幸を気にしない」はずであるが、大体の生き物が、平時において安穏としているのはなぜだろうか(少なくとも猛烈に苦しんでいるようには見えない)。同時に超絶的な快楽の中でアヘっているようにも見えない。これは不思議である。快と苦が生物全般において、ある程度何らかのバランスを持っているように思えること、これはそれを担保するようなメカニズムがはっきりとしないがゆえに不思議である。カラダがとても大きい生き物はいる(キリンとかゾウとかクジラとか)、カラダがとても小さい生き物も沢山いる(ネズミとかハエとかミジンコとか)。移動速度がとても早い生物がいる(チーターとかハヤブサとかマグロとか)、逆に移動速度がとても遅い生物もいる(ナマケモノとかカメとかカタツムリとか)。しかし超絶的な苦しみを体験し続けながら生きているらしい種は、どうも知らない。また超絶的な快楽を経験し続けながら生きてるらしい種というのもどうも知らない*4。なぜなのだろうか?これは不思議である。
  • 意識ある生物の一つである人間の一個体としては、進化どうこうより、快苦がもっとも重要である。しかし万能酸である進化に打ち勝つこと、そんなことは私達にできるだろうか?それとも進化に勝つなどという事自体、そもそも語義矛盾なのだろうか。

*1:Googleの電卓機能を使っただけでも、進化メカニズムの爆発的な強さはすぐ確認できる。目に見えないほどの(認知されないほどの)小さな適応度の差であっても、時の経過とともに、それは一気に大きい差となって現れてくる(ここで「適応度」(fitness)というのは残す子供の数のことである。高学歴だとか、バリバリのキャリアウーマンだとか、そういう「承認に関する位階」で上位に上る能力の事ではない。実際、統計的には、例えば学歴が高くなるほど残す子供の数は減る、つまり適応度は下がる、という事はあるようである)。人口がつりあい状態にある環境で、ある特定の遺伝子を保有することで、もし残す子供の数が、周囲より統計平均で見て、10%多くなるような突然変異が現れたらどうなるか(10%の適応度の差なんて、ばらつき(分散)が大きければ自分の周囲だけ見ていては、まず気づかないような小さな差異である)。この条件下では、適応度が高い方の人口は一世代で1.1倍になる。これを単純に複利計算すると二世代では1.1×1.1=1.21倍になる。このままずっと計算すると10世代で 1.1^10 = 2.59.. 役2.6倍になる。人間に関して10世代というと、20才で子供を生みつづければ200年、30才で生み続けても300年しかかからない。適応度の10%の差だけで、2-300年たつと、ちょっとだけ子沢山のグループの方は、その人口を2.6倍増やすことになる。で、これが2000-3000年たつとどうなるか?これも複利計算で掛け算になる。2.6^10=14116倍。約1万4千倍に増える。あとはドンドン掛け算である。(殿様から褒美に何が欲しいか聞かれた家来が、今日は米1粒、明日はその倍の2粒、その次の日は更に倍で4粒、と毎日倍の米粒を希望した、みたいな話はどっかで聞いたことがあると思う。これはすぐに莫大な量になるが、こうした話は指数関数の伸びが直感を越えて大きい、ということ示している)

*2:こういう話はアメリカでは滅多に進化に関する議論の中では触れられない。それは政治的にあまりに危険だからである

*3:こうした問題は日本でもほとんど触れられない。たとえば少子化は日本において喫緊の深刻な問題の一つであるが、これを生物学の問題として捉えて論じているようなブログはほとんど見かけない(というか見たことがない)。正社員と非正規雇用の間での結婚率の大きい隔たり、収入と子供の数の間の関係などについて論じたブログはよく見かける。しかしそれを生物学的な問題としては捉えた論考はまだ見てない。こうした統計をザッと見る限り、そこで見られる出生率の差は、生物学的に十分に意味を持ちうるほどの差である。つまり(もしそうした出生率の差が何らかの遺伝的形質と相関関係を持つのであれば)、これらの差は短期間で進化を引き起こせるぐらいの十分に大きな数字である。最初このエントリーのタイトルを「社畜は進化する」にしようかと思っていたが、資本主義や独裁国家などといった政治的な環境は、進化適応環境として、人間の心理的形質の分布状態を変えうるだけの影響力を十分に持っているものだろうと、私は今思っている。

*4:もちろんこうした判断は、他の動物の外見的な行動などを見て、それを自己の「主観的経験と外見的行動の相関」の記憶と照らしあわせ、そこから類推・外挿して判断しているにすぎない。だから実際はそういうミラクルな生物がいる可能性もある。つまり実にうらやましい幸福生物や、心から同情すべき苦悩生物など、そういう多様性が実はあるのかもしれない。つまり他我問題の壁に阻まれてそれが私達には分からないだけだ、という可能性もある。

「クオリアの哲学と知識論証」 読み始め

クオリアの哲学と知識論証―メアリーが知ったこと

クオリアの哲学と知識論証―メアリーが知ったこと

これは面白い。まだ2割ぐらいしか読めてないけど。この本はタイトルに偽りなしで、「クオリアの哲学」と「知識論証」について驚くぐらいきっちり書かれてます。多分日本語で今までに出たこの領域の文献として、一番よいものではないかと思います。

著者の立場は「タイプA物理主義」。この立場を「メアリーの部屋」(知識論証)の攻撃からディフェンスする。これが大筋の流れのようです。

個人的には「タイプA物理主義」は一番無理筋のポジションだなぁ、と感じている立場です。そう感じているのは「現象的経験を無視するという自己欺瞞に逃げる」以外にどうやってこの立場を整合的に思考できるのか、それが今のところ僕には分からないからです。つまり「反対だ」とか「間違っている」とかでなく、「そもそもどうやってそんな立場が整合的に主張可能なんだ?」というのが現在の心情です。ただ本書ではこうしたタイプA物理主義が持つ「受け入れ難さ」の部分にターゲットを合わせて、説明が行われているようなので(後書きより)、ちょっとずつ読んでいきたいと思う。期待。