承認に関する不思議な序列 無関心<下方承認<上方承認

書きかけ(というか考える途上で書いてるので、時間がたつとかなりの部分が「うわー」という感じのものになる予定)


承認欲求という言葉は、日本語圏のブログおよび新書界隈では、一般に「他者に認められたい(有名になりたい、尊敬される状況になりたい)」的な欲求をさす意味で使われているが、

しかし「すげぇやつと思われたい欲求」というのは、実際のところもっと一般化された承認に関する欲求/性向の一部、として見るのが妥当と思われる。それは次のような欲求/性向である。

  • 他者の中での、自分の承認上の位置付けを、一ミリでも向上させようという欲求/性向

これはすごい分かりにくいが、二段階に分けて説明するのがいいと思う。




まず

  • 自分が他者の中でどう思われていそうか/思われることになりそうか

というシミュレーションを行う能力が人間にはある。たとえば「こんな事をしたと言ったら、あいつは俺のことバカにするだろうな」とか「これをうまくこなしたらあの上司は俺を褒めてくれるだろうな」とか「あんなこと言ったから、あいつ俺のこと嫌いになっただろうな」などと言ったシミュレーション、こうしたことを行う能力を、多くの(おそらくすべての)人間が持っている。こうしたシミュレーションの結果自体が正確なものかどうかは分からない。


東京大学物語、第7巻、38ページより。この作品での主人公は、自意識過剰な若い男性である。彼の自意識過剰性は作中で非常に誇張された形で描かれている。ほんのコンマ数秒の間に「これだと相手にこう思われる・・・だからこうしよう、いや、しかしそうするとこう思われる・・・ならば・・・云々」という先読みの先読み、まなざしのシミュレーションが高速で行われる*1。こうして自分が他者からどう思われているかを過剰に気にするコンプレックスの塊のような自意識過剰の主人公の特性、これが多くのドタバタが引き起こす鍵となっていく。それはこの主人公の他者のまなざしの読みが大抵失敗しているから(または承認上の地位の確保の為に繰り出される戦略があまりにも突拍子もないから)であり、それゆえにここが様々な悲喜劇発生の一つの起点となっていく。




そして次に

  • 無関心<下方承認<上方承認」(「関心を持たれないより下方承認される」ほうが良い、「下方承認されるより上方承認されれる」ほうが良い)

というルールに従って、自己の行動や状態の評価が行われているものと思われる。おそらくここはある種直感に反する部分であるが、子供が放置されるとかまってもらいたくてイタズラしたり、「ねえお母さん、みてみてー」としきりに「見てもらいたがる」といったものが身近に観測できる一番原初的な形の例と思われる。「かまってちゃん」というのも、それは具体的に何かをしてほしいわけではなく、かまってほしいだけ、つまり無視されるよりはマシな状態、になるのであれば罵倒でも嘲笑でも、一応目的が達せられる状態であろうと思われる。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」(The opposite of love is not hate, but indifference.)という言葉があるが(ユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルの言葉らしい)、これは承認に関する不思議な序列を表している句と見える。

これは人間のみに限った能力ではなく、猫や犬もこうした能力を持っていると思える(身近にみたことがないので分からないが、他のサルたち、霊長類一般もこうした能力を持っていると思う)。爬虫類などはこうした能力がない(または影響力がかなり限定的なものとなっている)ように思える。

ネット上には多数のネコの動画がある。ネコは人間の関心を惹くために、わざと相手の視界に入る、相手が認知的に反応せざるを得ないような振る舞い、つまり無視できない振る舞いをする、という行動パターンを持つようである。




ポイントは主に三つほどあるのかと思う。

  • 他者による自己の承認的位置づけのシミュレーション、この正確性は、自分のシミュレーション能力に依存する。ある場合にはまったく上手くシミュレーションが出来ないし、ある場合にはまったく見当ハズレでありうる。また「自己の承認的位置づけのシミュレーション」の内実の形成(いわば評価関数の実装)は、少数の他者、の影響の元に形成されていくと思われる。たとえば親であったり友人であったりだ。重要な他者Significant other)といった述語は、そうしたある個人にとっての特定少数の他者を表しているもの見ることができる。
  • 承認上の位置づけは、無視されるより劣位で認知される方がいい、劣位で認知されるより上位で認知される方がいい、という順序を持つ。無視される、というのは意図的な無視というより「えーと、あの人誰だったっけ?名前・・・知らないな・・・」とか「え、そんな人いたっけ?」的な「完全空気」としてしか把握されないこと、または個人として見られていないこと(「いつも言っているスーパーの店員の名前?しらないよそんなのw」的な意味で個人として見ない、または会社のオーナーが会社の従業員をただの数字としてしか見ない、つまり人間としてみない、といったこと)を意味する。おそらくここはある種直感に反する部分であるが、ネット上の荒らしや、時々発生する(社会に対する復讐的な名目で語られる)猟奇的な殺人には、こうした序列が生きていることが見て取れると思う。
  • 承認に関する欲求/性向は相当に強い欲求/性向である。にも関わらず、日常生活の中で、そのことが明示的に語られることはほとんどないと思われる。この欲求は時に生存本能さえ越える力を持っている(「奴隷としてだらだら生きるより、英雄として死んだ方がマシだ」という自爆テロ的な行為。これを可能にさせているのも、承認に関するシミュレーションの結果が脳内で非常に強い影響力を持っているからである)。脳内での意思決定を議会制民主主義に例えるなら、平時において圧倒的多数で与党を取っているのはおそらく、多くの議題に関して、この承認に関する政党である、という風に例えてもいいと思う。にも関わらず、性欲や食欲ほどに市民権を得ていない。まるでそんな欲求は大したものではない的な扱いしかうけていない。しかしこの欲求/性向の大きさは、ちょっと道端に出てみただけでもすぐ確認できる。数百円にこだわるケチな人は沢山いるにもかかわらず、服を買うお金がもったいないから裸で生活している、という人は、いまだに一人としてみたことがない。裸で歩いてたら恥ずかしいからだ*2。「背広を買うお金がもったいないから裸で出社させろ」、といった裁判もありそうにもない。*3

最後にこれは回路の話をしている。「人間ってこういうこと思うよねー」「だよねー」とかいう話ではなく、「ある回路が脳内にある。それがこういう思考・行動を引き起こしている」といったことを理解したくてこういうことを書いてる。やがて社会神経科学といった分野によってクリアーに取り扱われるはずであるようなことについて、ここでは考えている。

こうした心、心的機能について扱った話は話がボンヤリとしやすい。それは機能を語っているからであり、どういう述語がどういう現象に対応しているのか、またある述語が他の心的な述語とどういう関係にあるのか・全体の中でどこに位置づけられるものなのか、といった事がほとんどハッキリしないからだ。しかし最終的には神経系の「回路の構造」に基礎付ける形で、こうした話はより明晰に語りうるようになるだろう*4。コンピューターのプログラムが持つ機能について語るには、最後はソースコードを引っ張り出してきて語るのが一番状況がハッキリしやすいのと同様、心的機能について語るにも最終的には神経回路の構造を引っ張り出してきて語るのが一番状況がハッキリとするだろう。

関連リンク

  • wikipedia:心の理論 - 心の理論という言葉はよく知られてるし、そういう「機能」(他の人が何を考えてるかを推し量る機能)は実際多くの人が持つだろうが、当エントリーではその中でも特に限定的な領域(他の人が”私について”何を考えてるかを推し量る機能)と、その結果に対する自動的な応答の強烈さ、に焦点をあてている。
  • wikipedia:en:Attention seeking 日本語で言ういわゆる「目立ちたがり屋」や「かまってちゃん」
  • wikipedia:en:Significant other 重要な他者
  • wikipedia:en:Inequity aversion 不平等嫌悪。嫉妬、ひがみ、やっかみ。
  • wikipedia:en:Social inequity aversion これも不平等嫌悪。今のところなぜか二つに分かれている。

関連エントリ

*1:これがあくまで「漫画的誇張」であるのは、こうしたシミュレーションというのが、実際には非言語的で、内語をともなわない非常に高速で並列的なものである点にある、と思う。言語的にシリアルにひとつひとつ考えるのではなく、並列的に一気に処理が行われ、利用可能な対応の中から、高速で取るべき行動が一気に評価されて選択されると思われる。

*2:恥辱は「自己の承認上の地位の下落」が認知されたときに発生する感情と思われる。これはありふれた感情だが、恥辱を取り扱ったある本によると(どの本か忘れた・・・海外の女性研究者の書いた本の邦訳書だったと思う)、若者を対象にアンケート調査を行ったら、彼/彼女たちが最も恐れていた事象は、仲間に笑われること、バカにされることである、という結果が出たようだ。この恥辱という感情は行動決定において非常に重要であるにも関わらずほとんどその重要性が真剣に理解されてない忘れられた感情の二大巨頭、と個人的に思っている。恥辱と双璧をなすもう一方の雄は「退屈」と思っている。(ちなみに日常でほとんど正面から語られない(つまり忘れ去られている)が、社会的また政治的にもっとも重要な情動は「嫉妬」であると思われる。原始共産社会のような考えは嫉妬心(または不平等嫌悪)が主たる原動力となった思考の果てに現れる理想の一つであろう。中国の文化大革命カンボジアポルポトによる知識人層(というか本を読むだけとか、メガネをかけてるとかだけで知識人認定されるというハードゲームだったようだ)の大虐殺など、前世紀において最も多くの死者を出した社会運動の背景となる主たる衝動は「嫉妬」だっただろう。しかしこの嫉妬という情動は学術的にはあるていど活発な研究の対象となっている。なので、学術的な意味では「忘れ去られている」と言える感情ではないように思う)

*3:こういう裁判があったら赤旗はどういう立場でこの問題を報じるだろうか。ちょっと見てみたい

*4:実際のところ回路に還元する、というのはかなりの単純化された表現である。脳はケミカルレベルで動作しているマシンなので、回路のトポロジー(回路の配線の形)に還元して語りうる事象は神経系の動作のごく一部でしかない。薬物や毒物が心的機能に影響を与えるのを見てもわかるように、微小な数ナノメートルから数十ナノメートル・・オーダーの微小な化学物質がその動作を制御する。また(これはダマシオが「デカルトの誤り」で楽しそうに書いていたことだが)副腎皮質ホルモンが脳の動作を変調していることからもいえるように、私たちの心的現象は脳だけから綺麗に語りうるわけでもない。ちなみにこれを更に考えていくと、 「Extended Mind 拡張された心」 という哲学上の概念で語られるようなことが出てくる。つまり心的機能は必ずしも「人体だけ」から語りうるものでもない。学者の心的機能、たとえば学術的能力が周囲にあるノートや図書館の存在に大きく依存しているように、私たちが心的と考える機能は、必ずしも脳だけを視界に入れて説明しきれるわけではない。とはいえ、脳を経由していない限り何らかの現象が起きていても、私たちがそれを「心的なもの」とは呼ばないという意味においては、脳に注目することはいちおう合理的ではある)

社会的認知・社会的情動の(私達の心理的生の中における)大きさ

社会的認知・社会的情動の私たちの(または私の)意識的な生活に占める比重の大きさ*1、これに最近ますます自覚的になってきている。私(または私達ヒト)の脳が見せる世界は、ソーシャルな意味によって彩られた(またはソーシャルな意味が主たる構成要素となっている)、ある種の閉じた仮想世界のようなものである。

ヒト(が持つ)の関心を探るために、今日の「はてな」のトップページからホットエントリ(ブックマーク数の多いページ)を適当にひとつを拾ってみると・・・*2

これはどっかの若い女性研究者が人為的操作で万能細胞を作れると報告したが、どうもそれが嘘っぽいという話に関連した議論だけど、さて・・・

このトピックが盛り上がる理由として「<不正な方法による承認の獲得>に対する怒り」というのがあるように思える。これは某「耳が聞こえないらしい楽譜の書けない作曲家」の問題、においても共通して見られる炎上の背景と思える。

D
先日ニコニコ動画ランキング1位の動画

我々は「承認を巡る闘争」を生きている。その戦いの中において不当な形で承認を獲得することは、人々の中にある種の怒りを惹き起こす。

こうだけ言うと、何とも文系的、またはただの文学的表現になってしまうが、こういうことが(自分個人として)面白く思える理由は、こうした炎上を引き起こす元となる回路が「脳内にある」ということが推察されること、にある。

つまり、道端に石ころが落ちていても私達は激高なぞしないし、関心も示さない。
しかし誰かが不当な方法(嘘や詐術)によって承認上の地位の向上を企図しているのを見た場合、または知った場合、私達はそのことに対して一定の注意を持ち、そして時にそのことに対し怒りさえ持つ。

それはなぜか?

それはそこに回路があるからだ。

これはすごい適当な返答だが、私達の脳内には、石ころに対しては反応せず、しかし嘘つき作曲家には反応するような、そうした一定の条件にもとづいて情報を処理する回路が(現に)あるのだ。

こうした神経的なサーキットがどういう構造をしているのか、そしてそれがどう発生し、そしてどのように変化していっているのか、そうした詳細は具体的にはまだ良く分からない。しかしそうした「何がしか」があるということ、それが(自分にとっては)実に興味深く思える*3

こうした回路がどのような構造のものなのか、そうしたことを最近よく考えている。*4

関連エントリ

*1:社会的な情報が大きい比重を占めているのは、あくまで「ヒトの意識的な生活」の中において、である。人間を解剖学的な観点から見れば、消化器が臓器の中で一番大きい容量を占めている。それに手足がくっついたのが私たちである。化学的・形態的・系統的側面から見た場合、ヒトは「自立移動型ウンコ製造器」と見るのが一番理解しやすい(失礼・・・でも実際そうでしょう。口と肛門のあいだに胃や腸やら色々がある。そしてそれを機能させるために色々付属物(手足や脳)がついている。人体というのはそう見るのが分かりやすい。付属しているオプションの部分を取り去ってしまえば、私たちの身体的構造は、基本的にミミズみたいなもんです。)。こうして見た場合においては、脳なぞ化学的・構造的に脇役に位置するものでしかないし、社会的認知なんてものはその更に末節に属する、どうでもいいような事象となるだろう。

*2:ここでは一つのエントリーしか扱っていないが(すいません・・・手抜きです)・・・それでも他のホットエントリーであっても、何がしかソーシャルな情動、代表的なものとして承認、そして次に承認に関わる道徳の問題、こうしたものが大きく(またはある程度間接的に)関わっている、ということはおおよそ見てとれる

*3:とりわけ多くの人がそうした回路の存在について言及しない、つまり無自覚である、ということが、(逆に自分にとっては)実に興味深い。(これはこうしたことが取るに足らないものだから、という事ではなく、逆にあまりにも当たり前すぎて、空気のように多くの場合において意識的な知覚の対象とさえならない、つまりそれほど基本的なレベルのものなのだ、ということを表しているように思える。)

*4:このエントリーはぼーっとしながら書いてるのでかなり適当である。しかし私がよく考えるのは、その「実装」のあり方である。人間がどのような認知機能を持つか、つまり人間の認知機能の「仕様」、これは日常的経験からすでに大方わかっている。自分が興味があるのは、個々の具体的機能が、実際にどのような方法で実装されているのか、そうした(マービン・ミンスキー的な)具体的レベルの問題である。

最近 思考がサクサク進む 社会性(sociality) 承認(recognition)

最近思考がサクサク進む。
最近は社会性(sociality)と承認(recognition)を軸にしつつ、日ごろ見聞きする様々な出来事を
生物学的かつ社会的な観点からいろいろと考えている。

以下、特にまとまりのないメモ。




一般に社会性や承認などといったことは、学問上、また人間理解や、自分を理解する上において、
「この上なく大切なもの」として触れられることはほとんどない。
しかしこれはどうも、人間の核だ。

もちろん それが全てだというわけではないが、少なくとも私たちの「意識的な生」、「主観的に経験される個人的な生」を考えるなら、社会性と承認は、コア中のコアにあたる概念だと思われる。

ここで僕が言いたいのは、「人間が協調的で互恵的な素晴らしい生物だ」とかといった意味で、ではない。*1

私が注目している点は、

私たちの行動の決定、感情の内容、気分の状態、これらを決定する要素の中で驚くほど大きい比重が、社会的な内容の情報、承認と関わる内容の情報で占められている、ということである。

社会性に関わる、または承認に関わる神経回路は、高等哺乳類の脳内において、相当に強く太い*2ものと思われる。

そしてこれらは重要であるにも関わらず、一般にほとんど語られない、または理解されてない、そのことが更にこれらのもの重要性を増している*3

たとえば私たちがお金でも職位でもなく、承認を求めて奮闘しているということさえ、現時点においてはほぼ皆無と言っていいぐらいに、語られることはない。

なぜそうなるかと言うと、ひとつには社会的欲求や承認欲求というのは当人にもうまく自覚することが難しいものということがある。加えて次に、こうしたことは「それを言っちゃあ、お終いよ」的な側面を持つためとも思われる。つまりこうしたことは、人間についてのかなり深いレベルのネタバレを含むため、と思われる。

歴史的には、こうした社会性や承認についての研究は、ヨーロッパ大陸の哲学者たちの間で、ちょこちょこと進められてきたようだ*4

こうした試みの一部は、社会学社会心理学といった形で、ある程度学問的な体裁を取った分野となっている。

しかし、当然だが、こうした問題は、より強固な科学のまな板の上に乗った時、初めて本当に面白くなる。

脳内において社会性に関わりがあるだろう部位は(半ば消去法的に*5)ある程度、見当はすでにつけられている。これはおおざっぱにいって、脳の前の方である*6。ここで社会的機能が、何らかの形で実現されているはずである。

こうした領域において、具体的にどういう形で社会性や承認として概念化されるような何事かがうまくエンコードされてるのか、それは恐らくまだ誰も知らないが、少なくともこの領域の構造を理解すること、それは、私たちを、そして自分自身を理解することの、おそらくは一番の近道なんじゃないだろうか、と自分には思える。

特にまとまりはなかった。

*1:残念ながら事実として人間は、そういうものではない。

*2:「太い」は比喩的な表現だが、脳の情報処理回路を道路網のように見立てた時、メインにあたる幹線道路のようなものとイメージできる

*3:何より重要なこととして、社会性や承認に関わる欲求については、「当人さえはっきり分かっていない」と思われる状況がおそらく相当に多いであろう事である。「性欲」や「食欲」がある時に、それを自覚していない人はそういないと思われる。そしてどうすればそれを満たせるか、満たすのにどれぐらいの手間・時間がかかるか、我慢するか・しないか、などは「性欲」や「食欲」の場合は、誰であってもそれなりにハッキリ見積もれると思える。しかし社会的欲求に関しては、それをはっきり自覚し、かつそれをすり替えや嘘ではなく、はっきり正面から言語化して相対化することは、おそらくかなり難しい作業となっているのではないかと思える。こうした「無能さ」は、違う観点からは、巧妙な自己欺瞞であるとして、それ自体を優秀な機能の一つと捉える場合もあるようである。

*4:サルトルの「まなざし」「地獄とは他者である」や、ホネットの「承認を巡る闘争」などが有名なようである

*5:消去法的というのは、大脳皮質において、視覚や音声情報の処理、感覚情報の処理や運動指令を行っている領域を除くと、脳の前の方と内側の部分がばっくり残るためである。ここらへんはその詳細の理解がほとんど進んでいない領域でもある。

*6:皮質では前頭前野、前帯状皮質、前頭眼窩、側頭極あたりが関わりが深いと考えられているようである。加えて、広域投射系(脳の広範囲の活動レベルをグワッと一気に調整できるレギュレーターみたいな回路)およびそれに直接的に大きな影響を受けやすい領域も、ある程度関わりが深いものと考えられているようである。

レイシズムを批判する

前回レイシズムを「擁護」した。基本的にそのスタンス(違いの存在を指摘することさえ否定する行為への反発)は変わらない。

しかしながら「常識的に考えて」レイシズムはよろしくないものとされる。この点は私は同意する。

ではなぜよろしくないのか。今回はそれを考える。

基本的にレイシズム(やその他の様々なレッテルと言われる概念分類)が持つ問題というのは、なにより

  • 「仲良くしたけりゃ、違いを強調するな、似ている点を強調しろ」

という所に尽きるだろうと思う。

好きな野球チームが違う「宗教的野球ファン」同志が、初対面から真剣に野球の話ばっかしてたら、どうみても打ち解けにくい、またはケンカになってしまうだろう。
数あるテーマ(お天気、食事、景気、etc)の中で、わざわざ一番対立しそうな論点を中心に置いてコミュニケーションを始めてしまうことは、両者が打ち解けあうのを困難にすることがある。

これが「レイシズム イクナイ」ということの、一番基本的な点だろうと思う。

つまりは仲良くなれる可能性を塞いでしまう。

で、ここで「囚人のジレンマ」的な問題が出てくる。

相手が協調的であるなら、こちらも協調したほうが得である。
しかし相手がどうみてもある差別的枠組みの中から出てこない時、こちらだけが協調的態度を取るのは、実に微妙な問題となる。

ここが右と左と呼ばれる立場のひとつの分かれ目になると思われる。

                • -

追記(2014年6月9日)
さて、レイシズムを批判する内容をもう少しまともに考えたので追記。

「差異の提示」→「認知的な線引きの発生」→「線引きに基づく闘争の発生」

差異を指し示すこと自体が、自動的にその差異に基づく仲間わけ(われわれ/かれら)を発生させ、そしてやがてそれに基づく闘争を発生させる、そういうメカニズムが人間にはある。

だから差異の存在を明示的に指摘すること、または差異の存在を明示的に指摘することを許容する雰囲気を放置することは、(それ自体が闘争の発生を含意しており)危険である。

これはひとつの理由付けとして、適切だと思う。人間はどんな差異だってグループ分け(われわれ/かれら)の線引きに利用する。大きいところでは宗教や宗派だったり、生まれた所だったり、肌の色だったり。小さいところでは着ている服のブランドだったり、読んでる雑誌の種類だったりと実に何でもありだ。


まなざし。俺をそんな目で見るな
あるステレオタイプ(とりわけネガティブな属性を含むステレオタイプ)で自分がまなざされていると感じることは、それ自体が苦痛である。いわゆる見下されている、という感じである。痛くはないが不快、または面白くない、と感じるだろう。そしてステレオタイプによるまなざしが持つ嫌な感覚には、おそらくもうひとつ重要なものがある。それは見下されているか、見上げられているかとは関係なく生じる感覚、疎外(alienation)である。疎外感を与えるメッセージとはは簡単に言えば「おまえはわれわれではない」という内容を持つメッセージだ。

俺を魔女にするな
自分がいかに攻撃対象にならずに他の誰かを攻撃対象とするか、これは人間という生物が繰り広げる社会的なゲームのひとつの重要な基本戦略となっていると思える。魔女狩りにおける魔女、そして社会における「ある分類上の枠組み」におけるマイノリティ、ここで見られる特徴のひとつは数的な多寡からもたらされる強弱の差である。軍隊同士の戦いは、互いの軍の規模の二乗に比例して戦況が決まる、という経験則がある(wikipedia:ランチェスターの法則)。自分が少数者に入るような「ある分類上の枠組み」は、そうした分類の仕方、ものの見方が広がること自体が、自分にとってリスクともなる。たとえば
・・・お金持ちは共産主義みたいな考え方が広がるのを恐れる。なぜって「貧乏人であるわれわれ」vs「それを搾取する少数のあいつらお金持ち」という分類枠組み、これに基づいて人々が動けば、数的な劣位のせいで、最終的にはどうがんばってもやられてしまうから。

終われないゲームのスタートボタン

われわれ/かれら、xenophobia、原因帰属、応報原理、統計的な認知

意図はない、にも関わらず偏見が実現される

遺伝子は俺の責任か?生態系は誰の責任か?

レイシズムを「擁護」する

「○○人は〜〜だ」とか「●●民族は──だ」とか言う形で、否定的な内容を含む発言がなされた時に、「そうした発言はレイシズムであるから正当ではない」といった形の批判がなされることがある。

これは

  • 「本人にコントロールできない出生上の偶然を根拠にして、ある誰かに対して批判的な扱いをしてはならない」

というものであるか、もしくは

  • 「○○人とか●●民族とか言っても、色々な人がいるのだか、ひとまとめにして、単純化して概念化してはならない」

というものか、もしくは

  • 「所属集団などだけから来るレッテルを通じて否定的対応を取られると、私も腹が立つ。だからあなたもやめなさい」*1

というものであるか、または

  • 「(言ってることは正しいのだが、そうした発言を認めると「ユダヤ人問題の最終解決」的な末路が現れることが予想されてしまうので、そうした観点から)そのような発言は「差別的」(という事で括って)受け入れないものとする」

というものが主であると思われる*2

しかし実際に人種や民族によって行動性向に違いがある。そしてそれが原因となって諍いが生じる現象が存在する。にも関わらずこうした形の素朴な反批判が行われることについて、一体どう考えればいいのだろうか?

まず何より、実際に我々は違う。一人ひとりがである。これは生物学的に違う。こうした違いは地理的に離れれば離れるほど、そして血縁的に遠くなるほど、大きくなる。

といってもこうした違いは、「私達とカエル」や「私達とソメイヨシノ」との間の違い比べれば、微々たるものでしかないが。

しかしそうした微々たる違いが、多くの人間社会のドラマを形成しているのである。




ここで何を擁護するのか。ここまで書いてきて、段々何を書いているのか分からなくなってきたが、

「人種や民族といった概念的に想像された人間のグループ」に対して「肯定的な述語をつけること」や「否定的な述語を付けること」はアリだろう、ということだ。

内容がそれなりに当たっているのであれば、そうした単純な表現自体を言葉狩りするのはバカげている。


  • 日本人は勤勉だ。日本人は近眼だ。
  • ユダヤ人は賢い。ユダヤ人はズルい。


どっちもアリだろう、ということである。

こうした時に、真剣に考えるべきは、

  • どう違うのか
  • どれぐらい違うのか
  • 「なぜ」違うのか
  • で、どうしたらいいのか

こうしたことであろう。

男と女は違う。これは生物学的に違う。ここで真剣に考えるべきは「違いが有るなんて言うな!」とか言った話ではなく

  • どう違うのか
  • どれぐらい違うのか
  • 「なぜ」違うのか
  • で、どうしたらいいのか

こういったことであろう。


あまりまとまりが無かった。

    • -

長期的には、人は自分たちの間にある様々な違いが、どのように、そしてどれほど生物学的な要因に規定されているか、それをより具体的に知っていくことで、こうした問題に対する見方は大きく変わっていくだろう。

たとえばオリンピックの陸上競技は黒人の独壇場である。
これは彼らが遺伝的に強いからだ。「ゲームのスタートラインはあらゆる側面において平等であるべき」とするなら、このことは遺伝チートと言ってもいい(wikipedia:チート)。
強さが発揮される詳細な生物学的メカニズムというのは、まだまだ研究の途上で曖昧模糊としてるだろうが、それでもこのこと(黒人の身体能力の高さ)というのはほとんど常識といっていいほど広く世界的によく知られている事だろう。

そういう意味で、オリンピックはゲノムの祭典である。

2012年 ロンドンオリンピック 100m 決勝 (wikipedia:ロンドンオリンピック (2012年) における陸上競技・男子100m)

    • -

2012年8月24日追記:書いてから一週間ほどたって自分が何を言いたかったか分かった。

ひとつは「メレオロジカル・ニヒリズム的な考え方を、日常の中で本気で適用したら、何も話せなくなる」ということだった。
自分はかつてある種の表現に強烈に違和感を感じていたことがある。それは国際政治や地域紛争などの報道や論評などの場面で使われるもので
アメリカの立場は〜」とか「中国はこの問題に対し〜」というような、国家名を主語にしてそれが単一の意図を持った存在者であるように擬制して語る表現だ。商法においてなら「法人」、すなわち組織を一個人のように擬制するやり方である。
こうした表現に自分は長いこと違和感を感じて引っかかっていた*3
アメリカって言っても、人によって立場違うだろ、政府内部でさえ対立あるじゃんかよ」とか「日本はとか言われても、俺はまったく知らねーよ」とか
とかく国家というものに一貫した意図を帰属させる表現に反感を覚えていた時期があった。それは端的に嘘じゃないかと。
「部分として意図を持った行為者を含む存在を、行為者として扱うな」という、そういう違和感だった。
しかしこれを本気でやったら、まあ、案の定であるが、何も話せなくなった。いや話せることは話せるのだけど、無駄に冗長にならざるを得なくなった。
だから一種の言葉のアヤとして、利便性の点から、こうした表現は受け入れざるをえない、または受け入れなないとほとんど何も話せない、そう思った。

もうひとつは・・・あれ、忘れた。

思い出したら、また書く。

    • -

2012年8月26日追記。思い出した。
もうひとつは「どうあがいても、我々は差別している」という端的な事実である。
この問題についての科学的研究として自分が一番最初に知った研究は、デズモンド・モリスが「マン・ウォッチング」の中で紹介していた人種差別に関する瞳孔反応の実験である。
人は好きなモノをみると瞳孔が拡大するらしく(目の真っ黒の部分が大きくなる)、これに対し嫌いなモノを見ると瞳孔が収縮するらしい(目の真っ黒の部分が小さくなる)。
これは無意識に起きるようである(こんな事が起きているとは普通知らないのだから、無意識というのは説得的でしょう。)
例えば女性に赤ちゃんの写真などを見せると、瞳孔が開くようです。

で実験は、「人種差別イクナイ」と言っている大人(白人)に、色々な写真を見せてみるというものです。
すると黒人の写真を見せた時、瞳孔がキュッと縮まっていたとのことです。

これはこれ以上のソースを今知らないので何とも言えないが、神経系の構造として、脳は自動で認知対象をパターン化し、カテゴライズし*4、そしてその生成されたパターンに応じて取るべき反応を自動的に形成しているはずである。こうしたカテゴライズ・パターン生成が自動的に行われているからこそ、私達は、たとえば日本人とガイジンを区別できるのであり、女性と男性を区別できるのである。できなければ、そもそもいま目の前にいる対象が人間なのかカエルなのか石ころなのかさえ分からないだろう。

つまりマザーテレサキング牧師もこうした回路を生成していたし、保持していた。そしてそれによって行動を形成していた。そうでなければ石ころも信者もカエルも詐欺師も、彼・彼女たちには、何一つ区別できなかっただろう。

そしてここから出てくるのが一番現実的な問題である。
対象について取得できる情報が限られており、対象に関する情報を取得するために費やせるエネルギーも時間も限られているかぎり、私は相手を適当にカテゴリー化し、不定な細部を勝手にステレオタイプで埋め、そしてその捏造された印象に従って行動せざるを得ない。そうしなければ確実に自分が統計的に痛い目に会うからだ。
つまり「差別しないと生活していけない」という話である。

実際これも自分で一時期試したことがあるが、偏見と、それに従った差別なしで生活を営むことは基本的に不可能である。
相手が男性のように見える。そうしたら女が好きであり、男は性的対象になってない、と考える。この考えは統計的に正しい。しかし同時に一定の確率で確実に間違えている。
良かれと思って男を女性との出会いの場に誘ってみても、「俺は一言も女が好きだとは言ってない!偏見だ。ふざけるな!」と思うかもしれない。アッー、なんてことだ。

しかしこうしたあらゆる可能性を、事前にいちいち確認して生活していくことは、実際できないのだ*5
覆面を被って手に包丁を持った人間がコンビニに入ってきた。ここで店員が「ドロボー!」と叫んだら
「俺はかなり寒がりな男で、だから覆面をかぶっている。かついま偶然そこで落ちていた包丁を拾っただけだ!ふざけるな!」
こうした可能性はある。しかしすべての可能性を考慮して、可能性の低い場合にも妥当するような反応だけを取って行動していくことなど出来ない。

つまり情報が十分にあればこうした失礼は起こらない。しかし個々の事例に対して情報を十分に取得する時間もエネルギーも実際の所ない。だから有限の情報(すなわち偏見)と、それにもとづいた行動の差別化を行わざるを得ないし、実際そうしているのである。

What Every Man Thinks About Apart from Sex (Blank Book)

What Every Man Thinks About Apart from Sex (Blank Book)

マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)

マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)

*1:しかしこうしたレッテルは当たっていることも少なくない。「男なんてセックスのことしか考えてないんでしょ」と言う発言は誤ったレッテルだろうか、それとも的確な事実だろうか、事実であるが言ってはならないことだろうか、それとも許された内容であろうか、何だろうか。

*2:最近の「ネトウヨ嫌韓」に対する「それはレイシズムだぜ」批判には、少し違う側面も見える。それは「おまえら底辺は底辺らしく自分が地を這っている自覚を持て」的な、「最底辺の人間が、ある種の枠組みにわざわざ乗り、そこで下方比較を行うことで自己承認を得ようとすることは、正当な自己承認の獲得方法と認めない」的なねじれた、若干ややこしい背景を持ちそうな部分があると思える。つまりこうした応答の中には、我々は人をどういう基準によって認めるのか(または侮辱するのか)、という点に関するイデオロギー闘争の側面も含まれている、と思える。あらゆる宗教的な活動に見られる価値反転的な行為、「貧しきものは幸いなり」的なものが、排外的なナショナリズムにもやはり見られると思える、ということである。とはいえ、ナショナリズムは価値の反転というより、価値の横倒し、縦のものを横にする(上下軸を内外軸にズラす)という面が強いと思われる。

*3:2012年8月26日追記。こうした表現方法には名前があって Collective intentionality 集合的意図、集団的志向性 などと言うようである。

*4:これはツリー型にすべてのものをどこかに配置するタイプのカテゴライズではなく、家族的類似性的な似たものを集める的な処理と思われる。

*5:むかし、あらゆる可能性を対象者本人に問いただしてから、自分の行動判断の前提として組み入れるようにしよう(つまり偏見に従って行動するのはやめよう)という試みを一時期意図的にやったことがある。つまり「あなたは男のように見えるけど男?」(この人は実は女かもしれない、そうであれば一定の特殊な配慮が必要となるだろう)とか「殴られるのってイヤ?」(この人は実はかなりのマゾヒストかもしれない、もしそうだったら相手の幸せのために苦痛を体験させてあげた方が良いだろう)とか、そういう質問をする。しかし大体、そういう質問をすると、怪訝な顔をするか、不機嫌になる、当たり前だが。つまり「どういう意味だ、なんでそんなことを聞くんだ!」という話になってしまう。つまりこういうことは聞くこと自体が失礼になってしまうものであり、基本的に問うこと自体が社会的に封鎖されているのだ。

ブラジルで実証:自らを絶滅させる遺伝子組み換え蚊(2012年7月27日、WIRED)

イギリスの『ガーディアン』紙は、この蚊を導入することで、ブラジルでは危険な種類の蚊であるネッタイシマカ(Aedes Aegypti)の数が、導入されていない地域と比べて85%も減少したと報じている

この遺伝子組み換えはどのように機能するのだろうか? 研究所では、限定された方法でしか繁殖できないオスの蚊が作り出された。幼虫の状態から成長するためには、テトラサイクリン系のある抗生物質を必要とする。

オスは、研究所ではこの薬を用いて育てられるが、その後自由に放たれて、天然のメスと交尾する。生まれる幼虫は、抗生物質がないので、成長することができず、死んでしまうだろう。数日で、遺伝子組み換えをしたオスの蚊も、その子孫も死ぬことになる。

手法は効果的で、コストもあまりかからず、間違いなく殺虫剤よりも環境への害は少ないとこの企業は説明する。しかし、まだあまり認知されていないため、遺伝子組み換えを恐れる世論からあまりに多くの反対にあっている。

蚊の適応能力を侮ってはいけない。これまでも高い適応能力を示してきた。例えば寝室に網戸が普及したことで、食料を求めてもっと早く、もはや日暮れ以降にだけではなく、日中から姿を見せるようになったことは言うまでもないだろう。

これはすごい。私たちは血である。なぜ私はイヌのようにワンワン泣くのではなく、こうしてブログをコソコソ書いているのか、それは血である。私の血がイヌと違うからである。こうした血そのものに対する直接的な工学的アクセスが始まっている。これは新しい時代である*1

      • -

この蚊を減らすために使われたアイデアを、対人間、すなわち生物兵器として使用したならどうなるか?

超イケメンの美男子、結婚願望が強く女性とすぐ結婚する、妻想いの素敵な旦那となるが、産めども産めども子供は死産、または若くして病気で死ぬ。そして女性が出産適齢期を過ぎた頃、そのイケメンも病気でぽっくり死ぬ。これが他民族絶滅用 イケメン兵器である。

どうでしょう。こんなのいや?それとも騙されてもいい?どうでしょうか。

*1:血に対する「間接的な」工学的アクセスであれば、何?千年も前から行われているので、それほど珍しい話ではない。それはたとえば、家畜の掛け合わせであり、作物の品種改良であり、愛玩動物の繁殖であり、そして私達の結婚である。ぬこがあれほど可愛いのも工学的な人為淘汰の結果である。ぬこ恐るべし。進化おそるべし。