(メモ)
真剣な思考は非常識な狂気へ至る。
逆に、ある思考が常識的でかつ適応的な領域から、一歩も外へはみ出ないならば、
そこでは必ず何かが無視されている。



思考を曇らせるもの。

  • 常識にひきずられる。

まず周りがどういってるかを考える。自分に情報も判断力もない、そういう自覚を持った上でなら、これはある意味正しいやりかた。けどそういう自覚がないなら危険。対策としては自分の日常の会話と遠い所にある色々な場面での対話をシミュレーションをしてみる(または実際にやってみる)こと。宇宙人とこのテーマについて話したら・・・ネコとこのテーマについて話したら・・・戦場で砲弾が飛び交う中で隣の兵士にこの話題をぶつけたら・・・などなど。

  • 理解できないものの価値を無視したくなる

自分の知らない事、自分の理解できないこと、そういう所からくる理屈は理解しがたい。こういう時はまずそういう理屈を発している相手を非難する、という倫理的・価値論的な方向から、なぜ・どうやってその理屈が発せられているかを説明する、という方向に思考を切り替えること。なぜなら実際に発せられたどんな言葉も、説明を要するようなひとつの自然現象だから。窓を開ける、雨が降っている、ここで「雨が降っていることは間違っている」そんなことを言う人はいない。それと同じ意味において、人の思考や発言は、何一つ間違っていない。

  • 思考停止を求める、終わらない思考を忌避する。

考えることのシンドサから、何か手の届くところにある平らな場所を探そうとする。そこで何か間違いをおかす。とはいえすべての問題について際限なく考え続けることはできない。大事なのは自分がそういう欲求にかられている、そういう現実的な問題ゆえに思考を捨てた、という点を自覚しておくこと。

  • 混乱から逃げる。

そんなことは考えない方がいい。考えると頭がおかしくなりそうになる。普通の人ならこういうであろうような問題というのは、思考を続けていくと必ず出てくる。もちろんそれを無視することは簡単だし、そう悪いことでもない(実際日常的にはこうした類の問題は常に無視されている)。ただ多くの場合、重要なことというのは、そうした混乱の中にこそある。

  • 慰めを求める。

慰めに思考が引きずられる。対策としては逆にふって、つまり可能な限り絶望的な方向へ思考しても、その考えが持つか、そこを試す事。慰め以外になんの「売り」もなかったなら、その思考はそういうものだった、ということ(もちろんそれは考える文脈においてのみ。僕らの日常にとって、慰めは欠くことのできないもの)。

  • 順応性に引きずられる

今自分が置かれている環境に順応するため、思考がある方向へ誘導されること。

  • 言葉に踊らされる

哲学上の問題は言葉の誤った使用によって生ずる。これは欧米の分析哲学も長く関わってきた問題。言葉による思考の誘導。言語によるしばり。これをよく自覚すること(むずかしいが)。一般にたよれるのは連続性の議論(ソリテス・パラドックス)と、上にも書いた文脈の置換。簡単な思考実験だけでも結構色々な問題を見つけることが出来る。

これは何か

ここに書いた事というのは、簡単に言えば、自分の思考にかかるバイアスを拒否するための注意、ということ。しかしそれは同時に、進化の過程で獲得された素晴らしいヒューリスティクスを無視する、ということでもある。だから「壊れた計算機」のように思考したい、という場合、つまり果てしなく深く考えたい、というとき以外は、こういう思考はしない方がいい。日常生活を普通に送ることも出来なくなる。