どれだけの懐疑が可能か


僕達にとって可能な懐疑のレパートリーは、どれぐらいの数あるのだろうか。有名な例をざっと眺めただけでも、有名なもので、胡蝶の夢デカルトの悪魔、水槽の脳、マトリックス、世界五分前創造説、外国なかった説、etc,こうした種種雑多の懐疑を、トップダウン的に配列していくことはできないだろうか。それは中々難しいのだけれど、おぼろげな方向性だけはある。今回はそれを書く。それは以下のようなもの。

ある事前情報(科学なら観測結果、実験結果などと言うだろうか)を持つある人間にとって、その時に可能な懐疑の全体とは、その事前情報と整合性を持つ仮説の全体だ。これを違う観点から眺めると次のようになる。仮に神経ネットの持つ何らかの意味での構造、が情報を保存しているならば、可能な懐疑とは

  • ネットワークの一部の自由度を奪う、つまり固定した上で(これが事前情報、前提する事実に相当)、
  • ネットワークの残りの部分で取りうるパターンの内、近傍での矛盾が生じないような構造レパートリ(広域的矛盾の発見には深く長い活動を必要とするだろう)

の全体で対応づけれるだろう。