ポストヒューマンは価値の底を抜く

ポストヒューマン(技術的に改変された、未来の人間のこと)は、今の人間より、強く、より長生きで、より賢く、より幸せな、ただそういうだけの存在として想定されていることが多い。
しかし確実にそうはならない。改変が、そうした今の僕らの価値の線上で行われていく時期とうのは、技術が広まり始めたごく初期の頃だけだろう。


その後すぐに訪れるであろう改変の方向性というのは、価値の方向、僕達の持つ価値自体をいじくる方向へと変わっていくだろう。つまりポストヒューマンたちは自分達の価値をいじくるだろう、ということだ。

これはどういうことかと言うと、例えば、長生きする方向へ自己を改変するような初期の方向性が一段落したなら、その後は、死を恐怖する自分の脳内回路を改変していくような方向、こうした方向へ改変を行っていくようシフトしていくだろう、ということだ。


簡単に言えば、

  • 「葛藤から開放されるため、欲求に沿うように能力をいじる」

という方向のアホくささにすぐ気づき、

  • 「葛藤から開放されるために、欲求をいじる」

という方向に、または

  • 「葛藤が不快として生じないように、認知の構造をいじる」

といった方向へと、少しずつ移っていくだろう、ということだ。


こうした時代には、はっきりと価値の底が抜けるだろう。
つまり Is-ought problem が日常のヒトコマになるだろう。
そうした世界はどんな感じだろうか。


とりあえず今の僕としては、こういう状況はとても怖い。
それは人間が人間でなくなっていくことだからだ。
でもこの方向の変化が起こることだけは疑いようがない。
なぜって、そうした技術があったなら
まず何より僕自身が、そういう方向で自分をいじくるだろうからだ。

宗教的に言うと


宗教的に言えば、こうした自己改変の方向は、仏教や禅が説いてきたような救いの方向性と似てると言えるだろう。東洋圏の宗教は、大雑把に言って
「執着するから、苦しいのだ。執着しなければ苦しくない」とか
「よく理解してないから下らないことで頭悩ますのだ。明らかになれば迷いは消える」とか
そういう考え方のもとに、人を導き思考させ、そして安寧を与えようとしてきた。
この考え方は技術的に言い換えてしまえば
「欲望をノックアウトすれば、不満が生じようはずもない。」
「葛藤が生じるメカニズムを排除すれば、葛藤は消える。」
とかそういうものになっている。ポストヒューマンが行う自己改変も、きっとこういう方向性のものとなっていくだろう。
なぜか?

進化的に言うと


なぜそうした方向に自己改変が行われるか?なぜ欲望や認知構造の否定が行われていくのか?
それは今の私達の欲求や認知構造が、進化的な遺物でしかないからだ。
私達の欲求のレパートリーや認知の構造は、
生きる幸福を目指して定着したものでも、何か果たすべき役割があって定まったものでもなく、
単に数の多寡で量られる盲目の選択過程の結果として残った何かでしかないからだ。
自分が流行のインフルエンザにかかっていたとして、
それが流行しているからという理由で
これからもそのインフルエンザにかかり続けなければいけないと思うだろうか?
理屈としてはこれと一緒だ。
数が多いからといって別にそれは「良さ」の指標にはならない、ということだ。
数の多さは「強さ」の証あって、「良さ」を示すものではない。
(ここでは人間であることを病として例えているが、僕は別に人間であることをそれほど悲惨なものだとは思っていない。とはいえ、誰が言った言葉かは知らないが次の一句は面白いと思っている。『生命はセックスを介して感染する不治の病である。』)


・・・うーん、しかし
今日のオイラは毒電波が強い・・・


(ここで日を挟んで、更に文章の続き)

哲学的に言うと


哲学的には二つの側面が出てくる。
多くの人が思うのはまず倫理の話だ。人間が人間を改造することは倫理的に良いことなのか・悪いことなのか云々といった話だ。これは実際けっこう語られているが、残念ながらほとんど無意味だ。
アリの世界は働きアリと女王アリなんて階層があって不平等だ、とか人間の倫理感情をモトに論じるのがほとんど無意味なのと同じように、形質的に別の種に分類されるほど異なる未来の私達について、現在の私達人間の倫理をモトに云々することはほぼ無意味だ。
というわけで短いけれど倫理的についての話はこれだけで終わります。

もうひとつ哲学が関わる問題は、心の哲学、とりわけ色々な議論があるクオリアに関する話。こちらの方が実際的で重要だ(僕がクオリアという概念に関わる理由のほとんどもこの背景からのものによる)。


考えて見て欲しいが、ある未来、脳の構造をかなりの精細さ自由にいじくりまわせるようになった時代、あなたは自分をどう改造するだろうか?
普通ヒトは、ものごとの選択の目安として、「どちらを選択したほうが<良い>か」を考える。
しかしこの<良さ>というのは私達の現在の脳構造に依存するものでしかない。
だから、あなたはあなたの<良さ>の指標をどういじくりますか、という問題に直面すると、もはや普通の判断方法は使えなくなる。
このとき唯一有意味でありうる指標というのは、「そう改造されたらそれはどんな感じか」というものだけになるだろう。
つまり"What it is likeness" 脳構造を改造した後、その生物であるとはどのような感じか、というのが唯一の指標として意味を残すものになるだろう、ということだ。
逆にいうとここを知らねばオチオチ自分を改造もできないだろう。
そういう意味で、クオリア空間の構造を同定すること(ある脳構造はどのような主観的体験をするのかを同定すること)、これは非常に実際的な、工学上または日常のヒトコマとしての重要な問題となってくるだろう。


いや、しかし今日も毒電波が強い・・・