永遠の合わせ鏡

一即一切、重々無尽。
これは仏教の分野の概念で、一点が全体であること、また物事が重層的に合い重なり合っている、といったことを主張している。
この概念の視覚的なアナロジーとして、
「表面が鏡になっている玉が、いくつもいくつも空間に浮かべられている情景」
が用いられる事がある。

ひとつの玉を覗き込むと、そこには周囲の別の玉が多数映り込んでいる。
そしてその映り込んだ玉の中に、元の玉自身も再度映り込んでいる。そして更にその中に別の玉が映っており・・・
ここには終わらない循環がある。


これは現代的に捉えれば、主に二つの(しかし同根であろう)問題に分解できる。

因果

ひとつは因果。
因果の網の目が宇宙全体で分かちがたく編みこまれている、という視点。
例えば宇宙の中のそれぞれが、宇宙の他の全てと関わっているという
Bohm がいうような量子力学全体論的な性格、
また時間・空間という範囲にわたって結びつけられたEinstein がいうような 相対論的な時空の性格などだ。
これらは数学的に言うなら、物理系が独立な部分系に分解できないことに当たる。
ファインマンはかつてこう言った。

"A poet once said "The whole universe is in a glass of wine." We will probably never know in what sense he meant that, for poets do not write to be understood. But it is true that if we look at a glass closely enough we see the entire universe."

認識論

もうひとつは認識論。
一点を深く考察すると、他の全てが出てきてしまう、という循環論法にかかわる問題だ。

物理学、脳、言語、論理、数学、これらについての考察は互いに果てしなく循環する。

玉の一点を深く覗き込むと、そこにはすべての玉が(その玉自身を含む)、違った角度で何度も何度も現われてくる。

これを例えば、神経回路が閉じたひとつの大きな命題ネットワークを形成しているためだ、とするならば、そこからはまた因果的な視点が分かちがたく現われてくる。



この言葉を僕が最初に知ったのは高校生のとき。
学校をサボって近所の図書館をウロウロしていたとき、何となく手にした一冊の仏教の解説本の中で、この概念と出会った。
まだ meaning of life というテーマが、僕の中で好奇心の対象として重要だったころのことだ。