インテリが制作する法、社会制度、その失敗、人間の認知能力に対する誤った仮定

メモ

自由契約。誰が保険の約款を隅から隅まで理解してサインしてるか?おそらく99%以上の人間が理解しないまま(できないまま)サインしてる。「柱が一本でも残ってたら家が全焼しても火災保険が降りない」、そういう話が現実にあるが、これはまあ何というか、完全に詐欺だろう。

認知的な負荷がどれぐらいのシステムか、それによってそのシステムにアクセス可能な人間の数は限られてくる。
認知的な負荷の高いシステムは、値段が高くて頼めないサービスと一緒である。それは存在していても実際には利用できない。多くの法システム、社会保障のシステムはそのようなものとなっている。

シナプスがどれだけ新生されればそのシステムを利用できるようになるか、樹状突起がいくつ伸びればそのシステムを利用できるようになるか、
これら計算時間または学習時間は、貨幣以上に有限である。一日24時間しか使えない。あるシステムを利用するのに必要な情報処理時間が、仕事や社会的生活に必要な処理時間の残余を越えるなら、そのシステムは存在しないも同様である。

東大の法学部を出た法律オタ達が、必死になって作りこんだ法システム、それを普通の人間がちゃんと把握することは土台困難な話だし、把握するにしてもそれに割く時間が無駄としか言えない。そしてそれ以前にハードウェア的な意味での脳の情報処理能力またはスタイルといったものに、個人間で違い、遺伝的な、があるだろう(ここらへんの違いはIQの持つ分散あたりに何がしか反映されているかもしれない)。

また計算をどのタスクに割り当てるのかというプライオリティの問題。たとえば暴力的な親のもと崩壊しきった家庭で暮らす子供は、思考時間をいったいどういうタスクに優先的に振り向けるだろうか。おそらく次のようなものだろう。どうすれば殴られないだろう、どうすれば今夜のご飯が食べれるだろう、どうすれば今夜布団の中で眠れるだろう、等々。これらが確実な優先事項である。

歴史がどうした、社会がどうした、政権交代がどうだ、ライフハックがどうした、そんな話に付き合えるような認知上のアイドル・タイムはそういう人間には確実に残されない。就職とか、結婚とか、またはキャリア・パスなんて話になったらもはや何のことか。そうした所から負の連鎖が引き起こされる。

私たちの社会は、こうした点に関し完全に無知であり、そしてそれゆえに多くの悲惨な失敗を日々目の当たりにしている。

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