クオリアは自然数における円周率パイ(のようなもの)である─構造は存在に届かない─
存在と意識について色々考え、自分の中で、共通する同根の点が分かった(ような気がする)。
クオリアや存在というのは、自然数の体系の中における円周率パイのようなものである。
円周率パイというのは、ある。妄想や空想のモノではない。中学校(小学校?)で習うありきたりのアレである。
それははっきりとある。最初の数桁を書けというなら 3.14...。おなじみのこれである。直径に対する円周の比として、確固として、ある。
にも関わらず、そこへは自然数からの有限回の操作で到達できない。つまり
要は自然数というのは「粗い」のである。ビッチリとモノサシの上を覆いきれるように思えるが、その実、自然数たち(の有限回の加減乗除の組み合わせ)によって作られる数の集まりなんてものは、スッカスカで穴だらけということだ。
パイさんから見れば、こんなもんだろう。
「自然数たちが作る世界ってマジで隙間だらけwww自然数ショボすぎwww」
ピタゴラス教団において、正方形の対角線の長さ(√2)が、整数の比で表せないということが、タブーであり、発狂を産みうるものだった、などと言われる。
ある種の伝説によれば、正方形の対角線が整数の比で表せないことを主張したものは、暗殺されたとか。
√2さんから見ればピタゴラスの主張は、こんなもんだろう。
「どんな数も整数の比で表せるとか、ピタゴラスさん、嘘つきすぎw そんなこと言うなら、ねぇ、オレは?オレはどうなるの?ねぇ、ねぇってば」
つまり
「どんな自然数の組み合わせの比も√2には届かない」
で、こうした事例と似たような状況が「世界の物理的記述」と「存在」または「意識」の間にある(と、いま私は考えている)。
まだ自分の中で散文的にしかまとまってないので、散文的に書くが、これは
カント的に言えば「存在はレアールな述語ではない」であるし、
ハイデガー流に言えば「存在は無である」となるし、
ラッセル流に言えば「物理学による世界の記述は因果的骸骨である」ということになるし、
ウィトゲンシュタイン的に言えば「語りえないことについては沈黙せねばならない」ということになるだろうし、
永井均風に言えば「<私>や<今>についての記述は、累進構造を通じて常にしぼませた形で理解することができる」となる。
自分流に言語化すれば、
「関係性についての記述は、その実現様態について何も語らない。」
「言語は現実に届かない」
「情報は実在に届かない」
「構造は存在に届かない」
といった風に今理解している。
で、
「なぜこういう事になっているのか?」
それは
「分からない」
何故かは分からない、だがどうもそうなっている(と思われる)。
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と、ここまで書いて気づきましたが、当たり前と言えば当たり前のこと、でしかないですね。
言語や記号による表現というのは、一現象であり、そこにはある種の限界があるんだろうねー、っていうだけの話でしょう。
「示されうるけど、語りえないもの」というのが色々ある、という。
しかしこの
【「示されうるけど、語りえないもの」がなぜ語りえないのか】について語り得たら
面白いのになー、と思う。そういう事はできないんだろうか。
比喩的に言ってみると、、、
「有理数ではない数」があるんだ、ということは無限回の操作を含むカントールの対角線論法のような方法を用いることで示されうる。
またはもっと単純に、あらゆる多項式は解を持つはずである、と前提してしまえば、「有理数でない数がある」という事は容易に示されうる。*1
でも「じゃあそれはどんな数か書いてみろ」と言われても、それは有理数を用いては(ストレートには)書けない。つまり語りえない。
「示されうるけど、語りえない」
マリーの部屋の思考実験は、ある意味でそういう形になっていると思う。無限の知識(または完全な知識)という概念を含む状況において、情報に還元できない何かがそこで示唆される。けれども「じゃあそれは何なのか言ってみろ」と言われても、それを情報として切り出すことができない。
ここもまた「示されうるけど、語りえない」の形を取っているように思える。
こういうことがスッキリ理解できたら面白いのに、と思う。ただ自分にはうまく分からない。