進化は今・ここで、私達に起きている

人間が進化の過程を経て生まれた生物だということに、多くの人は同意する。しかし実際そのことの意味はほとんど理解されてない、と思う。進化において重要なことは、それが今、現在進行形でリアルタイムで起きている、ということである。それはアフリカの奥地やアマゾンのジャングルにおいて奇妙な生物たちにだけ起きている現象ではない。進化は今・ここで、私達に起きている

中学生ほどの算数の能力があれば、この進化というメカニズムの普遍性とその恐ろしさはすぐ分かる。それは基本的には簡単な指数関数であり複利計算である。それはほとんど暴力的とも言えるものである*1。進化というメカニズムの普遍性を、哲学者ダニエル・デネットは、全てを溶かす魔法の薬品に例えて「万能酸(universal acid)」と形容した。デネットインテリジェント・デザイン(及びそれに惹かれるアメリカの宗教的大衆)を説得相手として想定して、進化についての本を書いており、そこでは人間の今・ここで起きている進化についてはあまり触れられていない。

しかし進化においてもっとも重要なことは、それが単なる歴史物語をつづるための概念装置でなく、これからの私達のあり方を予想するための具体的な理論である、という点にある。人間には遺伝的多様性がある。例えばある人は神経質であり、ある人はそうではない。またある人は知能指数が高く、ある人はそうではない。そしてある人の肌は白く、ある人の肌は黒い*2。こうした形質の多くは、各人が持つゲノムの塩基配列によって決定されている。つまりこれは進化の対象となる表現型のひとつなのである。これから人類の遺伝子プールにおける様々な形質の出現頻度は、どのように時間的に変わっていくのか。

人類の進化、これは今現に起きている事態である。そこで、ここで。

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

進化が綴る闘争の物語は、人間がその中を生きているような地位や承認をめぐる物語よりも上位にある。現在、(政治的な意味で)世界のヘゲモニーを握っているのは肌の白い人たちからなる集団である。彼らの政治的な優位はほぼ確実である。では白い肌が生物学的な勝者なのか、というと、こうした問いが単純に成立しない所に進化というものの深みがある。進化にはもともと勝者というものがいない。(個体数が)多いか・少ないか、また(形質が)残るか・消えるかだけである。進化というのは地位や承認の物語よりも、より上位に、もしくはメタな位置にあるメカニズムなのだ。今、バカスカと個体数が増えているのは、肌が黒い人たちである。貧困と暴力が荒れ狂う地域において、個体数が激増しているのである*3。こういう話題はあまりに危なすぎて、アメリカではほとんど正面から触れられることはない。しかしここにある興味深い亀裂は、人間とは何か、ということを考える上で、絶対に避けて通れない。

さて、進化というメカニズムがどこまでも普遍的なものだとして、それが何か?私達一人一人にとって、進化というメカニズムの最も最悪な所、最も嫌悪すべき所は「進化は幸・不幸を気にしない」という所である。進化というメカニズムは「数が増えるかどうか」だけを指標にして駆動される。生まれてきた個体の幸不幸なんて知ったこっちゃない、それが進化である。たとえばもしある人が「精神病」にかかり苦悩にのたうち回ることによって、周囲の同情を得て、周囲からの敵意が緩和され、結果として残す子供の数が平均的に増加するのであれば、進化というメカニズムは「躊躇なく」苦悩する個体を量産する方向へと働く。同情なし、待ったなし、である。これは実に恐ろしいことである。従業員が過労死しようが首吊ろうが、一切知ったこっちゃない、利益の額にしか注目しない完璧に怜悧な経営者、そういうものと同じである。進化は幸・不幸を気にしない。不幸が数を増やすのに有利ならば積極的に不幸を選び出しさえする。これは生まれてくる人間、生まれてくる感覚を持つすべての生物にとって、実に恐るべきことである。

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追記

  • しかし「進化は幸・不幸を気にしない」はずであるが、大体の生き物が、平時において安穏としているのはなぜだろうか(少なくとも猛烈に苦しんでいるようには見えない)。同時に超絶的な快楽の中でアヘっているようにも見えない。これは不思議である。快と苦が生物全般において、ある程度何らかのバランスを持っているように思えること、これはそれを担保するようなメカニズムがはっきりとしないがゆえに不思議である。カラダがとても大きい生き物はいる(キリンとかゾウとかクジラとか)、カラダがとても小さい生き物も沢山いる(ネズミとかハエとかミジンコとか)。移動速度がとても早い生物がいる(チーターとかハヤブサとかマグロとか)、逆に移動速度がとても遅い生物もいる(ナマケモノとかカメとかカタツムリとか)。しかし超絶的な苦しみを体験し続けながら生きているらしい種は、どうも知らない。また超絶的な快楽を経験し続けながら生きてるらしい種というのもどうも知らない*4。なぜなのだろうか?これは不思議である。
  • 意識ある生物の一つである人間の一個体としては、進化どうこうより、快苦がもっとも重要である。しかし万能酸である進化に打ち勝つこと、そんなことは私達にできるだろうか?それとも進化に勝つなどという事自体、そもそも語義矛盾なのだろうか。

*1:Googleの電卓機能を使っただけでも、進化メカニズムの爆発的な強さはすぐ確認できる。目に見えないほどの(認知されないほどの)小さな適応度の差であっても、時の経過とともに、それは一気に大きい差となって現れてくる(ここで「適応度」(fitness)というのは残す子供の数のことである。高学歴だとか、バリバリのキャリアウーマンだとか、そういう「承認に関する位階」で上位に上る能力の事ではない。実際、統計的には、例えば学歴が高くなるほど残す子供の数は減る、つまり適応度は下がる、という事はあるようである)。人口がつりあい状態にある環境で、ある特定の遺伝子を保有することで、もし残す子供の数が、周囲より統計平均で見て、10%多くなるような突然変異が現れたらどうなるか(10%の適応度の差なんて、ばらつき(分散)が大きければ自分の周囲だけ見ていては、まず気づかないような小さな差異である)。この条件下では、適応度が高い方の人口は一世代で1.1倍になる。これを単純に複利計算すると二世代では1.1×1.1=1.21倍になる。このままずっと計算すると10世代で 1.1^10 = 2.59.. 役2.6倍になる。人間に関して10世代というと、20才で子供を生みつづければ200年、30才で生み続けても300年しかかからない。適応度の10%の差だけで、2-300年たつと、ちょっとだけ子沢山のグループの方は、その人口を2.6倍増やすことになる。で、これが2000-3000年たつとどうなるか?これも複利計算で掛け算になる。2.6^10=14116倍。約1万4千倍に増える。あとはドンドン掛け算である。(殿様から褒美に何が欲しいか聞かれた家来が、今日は米1粒、明日はその倍の2粒、その次の日は更に倍で4粒、と毎日倍の米粒を希望した、みたいな話はどっかで聞いたことがあると思う。これはすぐに莫大な量になるが、こうした話は指数関数の伸びが直感を越えて大きい、ということ示している)

*2:こういう話はアメリカでは滅多に進化に関する議論の中では触れられない。それは政治的にあまりに危険だからである

*3:こうした問題は日本でもほとんど触れられない。たとえば少子化は日本において喫緊の深刻な問題の一つであるが、これを生物学の問題として捉えて論じているようなブログはほとんど見かけない(というか見たことがない)。正社員と非正規雇用の間での結婚率の大きい隔たり、収入と子供の数の間の関係などについて論じたブログはよく見かける。しかしそれを生物学的な問題としては捉えた論考はまだ見てない。こうした統計をザッと見る限り、そこで見られる出生率の差は、生物学的に十分に意味を持ちうるほどの差である。つまり(もしそうした出生率の差が何らかの遺伝的形質と相関関係を持つのであれば)、これらの差は短期間で進化を引き起こせるぐらいの十分に大きな数字である。最初このエントリーのタイトルを「社畜は進化する」にしようかと思っていたが、資本主義や独裁国家などといった政治的な環境は、進化適応環境として、人間の心理的形質の分布状態を変えうるだけの影響力を十分に持っているものだろうと、私は今思っている。

*4:もちろんこうした判断は、他の動物の外見的な行動などを見て、それを自己の「主観的経験と外見的行動の相関」の記憶と照らしあわせ、そこから類推・外挿して判断しているにすぎない。だから実際はそういうミラクルな生物がいる可能性もある。つまり実にうらやましい幸福生物や、心から同情すべき苦悩生物など、そういう多様性が実はあるのかもしれない。つまり他我問題の壁に阻まれてそれが私達には分からないだけだ、という可能性もある。