イジメ問題。汝、復讐せよ

イジメに関する報道が発生するたび、色々騒がれる。だが残念ながら、当然だけど、これは綺麗事では決してなくらない。これは闘争なのだから。

こうした問題に関する答えは簡単だ。復讐である。やられてる側に「おまえはあいつを殺してもいいのだ」とはっきりと教えるのだ。

ここで殺すというのは比喩ではない。

「自分の社会的生命、生物学的生命のすべてをかけるなら、おまえはあいつを殺していい。殺すことが出来る。」

このことをちゃんと教えるのだ。

闘争の女神は死を覚悟をした者にしか、微笑まない*1

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個人的には、人をイジメたこともあるし、人にイジメられたこともある。暴力沙汰のものというわけではないが。よく言われるように、人をイジメること、それは苦い思い出となる。己の愚かさを拡声器で自己宣伝するようなものだからだ*2。逆にイジメられること、それはショックである。そして強い怒りをもたらす。しかし、そこには同時に悪質なワクワク感も伴う*3。なぜなら、相手から受けた攻撃の分だけ、相手への攻撃が何も言わずとも正当化される、そういう本当に数少ない社会的場面となるからだ。つまり青信号である。やってよし。

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国際紛争や経済紛争の分析が、冷静に行える人も、個人間の関係になると突如として道徳だけを基盤において判断してしまうことがある。しかしそれは違う。混沌とした国際政治の中で、小国が大国から侵略を受けないようにするには、安全保障のネットワークに入るなり、核武装する他ない。「あの国のやり方は卑怯だ」とかいう道徳に基づく主張が有効なのは、道徳的違反に対するサンクションが実効性をもって機能している場合だけである。

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大人たちも日々いじめている。いじめのネットワークの中で生きている。私が100円ショップで驚くほど安い商品を購入するたびに、地球のどっかにいる極貧労働者の体を私はムチで殴りつけている。こうした大人たちが行うイジメは「私が直接 手を下したのではない」と自己欺瞞に陥ることができる複雑なしくみを用意した上で実行される。子供が誰かを殺すとき、直接殴る蹴るの暴行を加える。これに対し大人は、「私が打った弾が当たったのではない」と思える状況を用意した上で相手を銃殺する。つまり自己欺瞞のための複雑な仕組みを多数用意した上で行われる。

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こういう話は暗くなる。「愛だよ、愛」とか言いたくなる。でもアガペー的な意味での愛が機能しうるのは、人間が、お互いにどれほど最悪なものであるか、それを互いに共有できた後だけの事だろう。愛は絶望の果てにしかない。

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イジメの分析を行った本。興味深い。

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

この本は「万能感を感じることを目指す」といったイジメの動機の分析とともに、それをとりまく構造的分析も行われている。そしてある程度このエントリーの趣旨とも似ているが、学校におけるいじめをなくすには、当事者に普通の市民社会のルール(暴行は暴行として警察に引き渡すといった当然のこと)を実施することが重要だろう、としている。で、そうした考えの基盤にあるのが、「捕まる危険性を受け入れてまで、いじめてる奴なんてほとんどいない」という事実関係の分析だ。当エントリの趣旨である「復讐」も同様の背景からのものである。「相手に噛み付かれるかもしれない、いつかこの事が原因になって相手に復讐されるかもしれない、でもそれでもいじめるんだ!」そんな覚悟持ってイジメてるやつは、ほとんどいない。だからとにかく相手にリスクを与えることが重要である。どんな弱い人間でも、噛み付けば相手の耳を引きちぎれる。ボールペンを眼球に付き立てれば相手を永遠に失明させられる。おぞましいことではあるが、人は覚悟さえあれば、対個人に対して無力ということはまずありえない。ここが一つの重要なポイントである(国家対国家では一方がほぼ完全に無力であることはあるが、個人対個人ではそれはない。国家間紛争に例えるなら、これは「すべての国が大量の核を配備した状況で行われている紛争」と似ている。「その気になれば、どんな者も、望んだ他の誰かの生命を完全に奪い得る状況」、究極的にはそうした状況の中で行われているもの、それが個人間の闘争だからである*4。)

極限的な状況における道徳について、永井。

実際は殺していいのだ、という内容。というか「現に殺人が日々おこなわれている」、「現に殺すことが出来る」、この単純な事実に立脚して、偽善的な道徳に噛み付く。要は「俺は殺されたくない」というだけの話を「殺しちゃだめだ」という「善なる嘘」ですりかえてるのが、いわゆる道徳である、と。そして「殺してよい」または「殺すことが出来る」、この端的な事実は「邪悪な真理」、事実ではあるが危険であるがために滅多に語られないこと、として対置する。


死んだ彼に変わって今から滋賀県までイジメたやつを殺しに行くほどの気概は、私には「ない」。そう、まったく、ない。つまり私もただ傍観する。警察と同じように、教師と同じように。こうした欺瞞を論じた本、中島義道

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*1:ちなみに自殺というのは、必ずしも逃走というわけではない。それは時に、より巧妙な形で放たれている、強烈な復讐である。

*2:私は大人になってから、古い友達から「おまえは昔、俺をイジメてた」と言われてショックを受けたことがある。小学生のころに、ということだった。それは一つの衝撃であった。子供は(私は)残酷だ。私は確かにそいつをからかい、侮辱していた、子供じみたものだが、ただ暇つぶしや娯楽のためだけに、そいつに対してどうでもいい挑発をよくやっていた。だからそいつに殴られて泣いたことが何度もある。そうしたことへたいした意味はなかった。私はそいつが好きだったし、今でも好きなのだが、相手の中ではそうした過去の出来事は、自分の中での位置づけとはまったく違うものだったのだ。それはショックである。

*3:闘争ということが、どれほど人を興奮させ夢中にさせるものであるか、これはあまり語られることがない。性的な愛の持つ興奮が頻繁に語られうるものであるのに対し、闘争の持つ興奮というのは正面から見据えられて語られることはあまり多くない。闘争というのは長期間継続すると疲れもする。しかしやはり、短期的にはこの上なく興奮させられるものであり、退屈からの逃避としてはこれ以上の方法はちょっとないように思われる。これは私達の神経系がどのような構造をしているか、そしてそれが歴史的にどのように形成されてきたか、そのことを如実に物語っているように思われる。我々の神経系はその生まれからして「血塗られている」。

*4:大人の社会で分かりやすいイジメが現れないのも、ほとんどこの理由によると思われる。統治技術の一つとして「生かさず殺さず」というものがある。これは「誰かを極限的な窮地に追い詰めれば、たとえ自分が政治的・社会的な意味で絶対的な強者だったとしても、それでも自分の命が危ない」、そういう了解を表しているものと思われる。つまり「窮鼠猫を噛む」、そのことの恐ろしさを表しているものと思われる。本当に誰かを追い詰める場合は、マキャベリに言わせれば、相手が絶対に復讐が出来なくなるレベルまで徹底して追い詰めなければならない。こうした例の一つと考えられるのが、中国の歴史の中でよく見られる「一族郎党皆殺し」である。攻撃が終わった時、そこにはもはや復讐を決意できるような存在が残されていない、という大胆かつ単純な方法である。