宗教、物語的認知、意味と規範(妄想なぜなぜメモ)

アメリカやヨーロッパで行われている宗教が持つ機能の科学的分析においては、主に宗教が持つ集団の統合機能が注目されている事が多いように思う。これはアメリカやヨーロッパという国(宗教を持ってないとハミ子になる国)の内部にいるから、それが重要に思うのかもしれない。

確かに排他的な一神教が流布している国では、宗教を持たないということは、精神生活の問題とは別に、日常的な社会的な生活の中で、実際的な困難を色々と生じるのだろう。

しかし宗教の最も基本的な機能は世界に対する物語的説明であると思う。人の認知は物語・エピソード的記憶を通じて、規範を生成し、物事に対する意味を付与し、判断を行なっている、と思われる。そうした意味の中には、己の意味、も含まれる。そうしたエピソード的記憶を通じないことには、規範も意味も判断も生成されない、と思える(データベース的情報は神経回路の状態更新につながらない、と思われる)。つまり、エピソード的な入力を受けて情報を更新し、そこから規範や判断や意味を出力する、そういう回路構造が脳内にあり、宗教・またはより広く物語は、そうした回路に作用している、と思える。

だから「物語ではないデータベース的科学」は、物語を求めている人々にとって無意味であり、嫌われるのである。


エピソード的な記憶には海馬、内側側頭葉周辺領域が関わっている、とされる。ある種の宗教体験や現実感喪失(完全の意味の喪失)が、側頭葉てんかんによって生じうるという事も、ある種の整合性があるように思える。

で、こうした物語的な認知、意味の付与などの機能はそもそも何のための機能なのか、というと、これはおそらく社会認知であると思われる。個体を識別し、行為の意味を捉え、集団の中でうまく泳ぐ、サルがサル山の中でサバイブする機能がエピソード的な記憶の機能が高度化することの始まりだったのではないかと思える。

あと現代の欧米における無神論論争で頻繁にテーマとなるものとして、道徳性、人を道徳的に振舞わせるのは宗教だ、という主張がある。日本のような国では、宗教持ってるやつの方がなんか怖いわ、という感覚が結構あるが、逆にあそこらの国では「神を信じないやつは泥棒でも殺人でも平気でしてしまう危険人物だ」みたいな考え方がかなりはっきりとあるようである。こうした考えはかなり混乱したものであり、実際に統計上も誤りであるようだが、宗教またはより広く物語が道徳や規範に対して持つ強みは実際ある、と思われる。それはその自動性である。物語は意味・価値・決断・規範を、自動的に生成する、という点である。これが強みである(同時に危険性である)。規範の自動生成というのは、単なる事実の羅列では実現できない、と思える。ロールズの無知のヴェールのような思考実験でも実現できないと見える。このことは、社会的認知の回路が、物語的インプットにのみ自動的に反応できるような構造をしているためだ、と思える。


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