レイシズムを「擁護」する

「○○人は〜〜だ」とか「●●民族は──だ」とか言う形で、否定的な内容を含む発言がなされた時に、「そうした発言はレイシズムであるから正当ではない」といった形の批判がなされることがある。

これは

  • 「本人にコントロールできない出生上の偶然を根拠にして、ある誰かに対して批判的な扱いをしてはならない」

というものであるか、もしくは

  • 「○○人とか●●民族とか言っても、色々な人がいるのだか、ひとまとめにして、単純化して概念化してはならない」

というものか、もしくは

  • 「所属集団などだけから来るレッテルを通じて否定的対応を取られると、私も腹が立つ。だからあなたもやめなさい」*1

というものであるか、または

  • 「(言ってることは正しいのだが、そうした発言を認めると「ユダヤ人問題の最終解決」的な末路が現れることが予想されてしまうので、そうした観点から)そのような発言は「差別的」(という事で括って)受け入れないものとする」

というものが主であると思われる*2

しかし実際に人種や民族によって行動性向に違いがある。そしてそれが原因となって諍いが生じる現象が存在する。にも関わらずこうした形の素朴な反批判が行われることについて、一体どう考えればいいのだろうか?

まず何より、実際に我々は違う。一人ひとりがである。これは生物学的に違う。こうした違いは地理的に離れれば離れるほど、そして血縁的に遠くなるほど、大きくなる。

といってもこうした違いは、「私達とカエル」や「私達とソメイヨシノ」との間の違い比べれば、微々たるものでしかないが。

しかしそうした微々たる違いが、多くの人間社会のドラマを形成しているのである。




ここで何を擁護するのか。ここまで書いてきて、段々何を書いているのか分からなくなってきたが、

「人種や民族といった概念的に想像された人間のグループ」に対して「肯定的な述語をつけること」や「否定的な述語を付けること」はアリだろう、ということだ。

内容がそれなりに当たっているのであれば、そうした単純な表現自体を言葉狩りするのはバカげている。


  • 日本人は勤勉だ。日本人は近眼だ。
  • ユダヤ人は賢い。ユダヤ人はズルい。


どっちもアリだろう、ということである。

こうした時に、真剣に考えるべきは、

  • どう違うのか
  • どれぐらい違うのか
  • 「なぜ」違うのか
  • で、どうしたらいいのか

こうしたことであろう。

男と女は違う。これは生物学的に違う。ここで真剣に考えるべきは「違いが有るなんて言うな!」とか言った話ではなく

  • どう違うのか
  • どれぐらい違うのか
  • 「なぜ」違うのか
  • で、どうしたらいいのか

こういったことであろう。


あまりまとまりが無かった。

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長期的には、人は自分たちの間にある様々な違いが、どのように、そしてどれほど生物学的な要因に規定されているか、それをより具体的に知っていくことで、こうした問題に対する見方は大きく変わっていくだろう。

たとえばオリンピックの陸上競技は黒人の独壇場である。
これは彼らが遺伝的に強いからだ。「ゲームのスタートラインはあらゆる側面において平等であるべき」とするなら、このことは遺伝チートと言ってもいい(wikipedia:チート)。
強さが発揮される詳細な生物学的メカニズムというのは、まだまだ研究の途上で曖昧模糊としてるだろうが、それでもこのこと(黒人の身体能力の高さ)というのはほとんど常識といっていいほど広く世界的によく知られている事だろう。

そういう意味で、オリンピックはゲノムの祭典である。

2012年 ロンドンオリンピック 100m 決勝 (wikipedia:ロンドンオリンピック (2012年) における陸上競技・男子100m)

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2012年8月24日追記:書いてから一週間ほどたって自分が何を言いたかったか分かった。

ひとつは「メレオロジカル・ニヒリズム的な考え方を、日常の中で本気で適用したら、何も話せなくなる」ということだった。
自分はかつてある種の表現に強烈に違和感を感じていたことがある。それは国際政治や地域紛争などの報道や論評などの場面で使われるもので
アメリカの立場は〜」とか「中国はこの問題に対し〜」というような、国家名を主語にしてそれが単一の意図を持った存在者であるように擬制して語る表現だ。商法においてなら「法人」、すなわち組織を一個人のように擬制するやり方である。
こうした表現に自分は長いこと違和感を感じて引っかかっていた*3
アメリカって言っても、人によって立場違うだろ、政府内部でさえ対立あるじゃんかよ」とか「日本はとか言われても、俺はまったく知らねーよ」とか
とかく国家というものに一貫した意図を帰属させる表現に反感を覚えていた時期があった。それは端的に嘘じゃないかと。
「部分として意図を持った行為者を含む存在を、行為者として扱うな」という、そういう違和感だった。
しかしこれを本気でやったら、まあ、案の定であるが、何も話せなくなった。いや話せることは話せるのだけど、無駄に冗長にならざるを得なくなった。
だから一種の言葉のアヤとして、利便性の点から、こうした表現は受け入れざるをえない、または受け入れなないとほとんど何も話せない、そう思った。

もうひとつは・・・あれ、忘れた。

思い出したら、また書く。

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2012年8月26日追記。思い出した。
もうひとつは「どうあがいても、我々は差別している」という端的な事実である。
この問題についての科学的研究として自分が一番最初に知った研究は、デズモンド・モリスが「マン・ウォッチング」の中で紹介していた人種差別に関する瞳孔反応の実験である。
人は好きなモノをみると瞳孔が拡大するらしく(目の真っ黒の部分が大きくなる)、これに対し嫌いなモノを見ると瞳孔が収縮するらしい(目の真っ黒の部分が小さくなる)。
これは無意識に起きるようである(こんな事が起きているとは普通知らないのだから、無意識というのは説得的でしょう。)
例えば女性に赤ちゃんの写真などを見せると、瞳孔が開くようです。

で実験は、「人種差別イクナイ」と言っている大人(白人)に、色々な写真を見せてみるというものです。
すると黒人の写真を見せた時、瞳孔がキュッと縮まっていたとのことです。

これはこれ以上のソースを今知らないので何とも言えないが、神経系の構造として、脳は自動で認知対象をパターン化し、カテゴライズし*4、そしてその生成されたパターンに応じて取るべき反応を自動的に形成しているはずである。こうしたカテゴライズ・パターン生成が自動的に行われているからこそ、私達は、たとえば日本人とガイジンを区別できるのであり、女性と男性を区別できるのである。できなければ、そもそもいま目の前にいる対象が人間なのかカエルなのか石ころなのかさえ分からないだろう。

つまりマザーテレサキング牧師もこうした回路を生成していたし、保持していた。そしてそれによって行動を形成していた。そうでなければ石ころも信者もカエルも詐欺師も、彼・彼女たちには、何一つ区別できなかっただろう。

そしてここから出てくるのが一番現実的な問題である。
対象について取得できる情報が限られており、対象に関する情報を取得するために費やせるエネルギーも時間も限られているかぎり、私は相手を適当にカテゴリー化し、不定な細部を勝手にステレオタイプで埋め、そしてその捏造された印象に従って行動せざるを得ない。そうしなければ確実に自分が統計的に痛い目に会うからだ。
つまり「差別しないと生活していけない」という話である。

実際これも自分で一時期試したことがあるが、偏見と、それに従った差別なしで生活を営むことは基本的に不可能である。
相手が男性のように見える。そうしたら女が好きであり、男は性的対象になってない、と考える。この考えは統計的に正しい。しかし同時に一定の確率で確実に間違えている。
良かれと思って男を女性との出会いの場に誘ってみても、「俺は一言も女が好きだとは言ってない!偏見だ。ふざけるな!」と思うかもしれない。アッー、なんてことだ。

しかしこうしたあらゆる可能性を、事前にいちいち確認して生活していくことは、実際できないのだ*5
覆面を被って手に包丁を持った人間がコンビニに入ってきた。ここで店員が「ドロボー!」と叫んだら
「俺はかなり寒がりな男で、だから覆面をかぶっている。かついま偶然そこで落ちていた包丁を拾っただけだ!ふざけるな!」
こうした可能性はある。しかしすべての可能性を考慮して、可能性の低い場合にも妥当するような反応だけを取って行動していくことなど出来ない。

つまり情報が十分にあればこうした失礼は起こらない。しかし個々の事例に対して情報を十分に取得する時間もエネルギーも実際の所ない。だから有限の情報(すなわち偏見)と、それにもとづいた行動の差別化を行わざるを得ないし、実際そうしているのである。

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マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)

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*1:しかしこうしたレッテルは当たっていることも少なくない。「男なんてセックスのことしか考えてないんでしょ」と言う発言は誤ったレッテルだろうか、それとも的確な事実だろうか、事実であるが言ってはならないことだろうか、それとも許された内容であろうか、何だろうか。

*2:最近の「ネトウヨ嫌韓」に対する「それはレイシズムだぜ」批判には、少し違う側面も見える。それは「おまえら底辺は底辺らしく自分が地を這っている自覚を持て」的な、「最底辺の人間が、ある種の枠組みにわざわざ乗り、そこで下方比較を行うことで自己承認を得ようとすることは、正当な自己承認の獲得方法と認めない」的なねじれた、若干ややこしい背景を持ちそうな部分があると思える。つまりこうした応答の中には、我々は人をどういう基準によって認めるのか(または侮辱するのか)、という点に関するイデオロギー闘争の側面も含まれている、と思える。あらゆる宗教的な活動に見られる価値反転的な行為、「貧しきものは幸いなり」的なものが、排外的なナショナリズムにもやはり見られると思える、ということである。とはいえ、ナショナリズムは価値の反転というより、価値の横倒し、縦のものを横にする(上下軸を内外軸にズラす)という面が強いと思われる。

*3:2012年8月26日追記。こうした表現方法には名前があって Collective intentionality 集合的意図、集団的志向性 などと言うようである。

*4:これはツリー型にすべてのものをどこかに配置するタイプのカテゴライズではなく、家族的類似性的な似たものを集める的な処理と思われる。

*5:むかし、あらゆる可能性を対象者本人に問いただしてから、自分の行動判断の前提として組み入れるようにしよう(つまり偏見に従って行動するのはやめよう)という試みを一時期意図的にやったことがある。つまり「あなたは男のように見えるけど男?」(この人は実は女かもしれない、そうであれば一定の特殊な配慮が必要となるだろう)とか「殴られるのってイヤ?」(この人は実はかなりのマゾヒストかもしれない、もしそうだったら相手の幸せのために苦痛を体験させてあげた方が良いだろう)とか、そういう質問をする。しかし大体、そういう質問をすると、怪訝な顔をするか、不機嫌になる、当たり前だが。つまり「どういう意味だ、なんでそんなことを聞くんだ!」という話になってしまう。つまりこういうことは聞くこと自体が失礼になってしまうものであり、基本的に問うこと自体が社会的に封鎖されているのだ。