レイシズムを批判する

前回レイシズムを「擁護」した。基本的にそのスタンス(違いの存在を指摘することさえ否定する行為への反発)は変わらない。

しかしながら「常識的に考えて」レイシズムはよろしくないものとされる。この点は私は同意する。

ではなぜよろしくないのか。今回はそれを考える。

基本的にレイシズム(やその他の様々なレッテルと言われる概念分類)が持つ問題というのは、なにより

  • 「仲良くしたけりゃ、違いを強調するな、似ている点を強調しろ」

という所に尽きるだろうと思う。

好きな野球チームが違う「宗教的野球ファン」同志が、初対面から真剣に野球の話ばっかしてたら、どうみても打ち解けにくい、またはケンカになってしまうだろう。
数あるテーマ(お天気、食事、景気、etc)の中で、わざわざ一番対立しそうな論点を中心に置いてコミュニケーションを始めてしまうことは、両者が打ち解けあうのを困難にすることがある。

これが「レイシズム イクナイ」ということの、一番基本的な点だろうと思う。

つまりは仲良くなれる可能性を塞いでしまう。

で、ここで「囚人のジレンマ」的な問題が出てくる。

相手が協調的であるなら、こちらも協調したほうが得である。
しかし相手がどうみてもある差別的枠組みの中から出てこない時、こちらだけが協調的態度を取るのは、実に微妙な問題となる。

ここが右と左と呼ばれる立場のひとつの分かれ目になると思われる。

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追記(2014年6月9日)
さて、レイシズムを批判する内容をもう少しまともに考えたので追記。

「差異の提示」→「認知的な線引きの発生」→「線引きに基づく闘争の発生」

差異を指し示すこと自体が、自動的にその差異に基づく仲間わけ(われわれ/かれら)を発生させ、そしてやがてそれに基づく闘争を発生させる、そういうメカニズムが人間にはある。

だから差異の存在を明示的に指摘すること、または差異の存在を明示的に指摘することを許容する雰囲気を放置することは、(それ自体が闘争の発生を含意しており)危険である。

これはひとつの理由付けとして、適切だと思う。人間はどんな差異だってグループ分け(われわれ/かれら)の線引きに利用する。大きいところでは宗教や宗派だったり、生まれた所だったり、肌の色だったり。小さいところでは着ている服のブランドだったり、読んでる雑誌の種類だったりと実に何でもありだ。


まなざし。俺をそんな目で見るな
あるステレオタイプ(とりわけネガティブな属性を含むステレオタイプ)で自分がまなざされていると感じることは、それ自体が苦痛である。いわゆる見下されている、という感じである。痛くはないが不快、または面白くない、と感じるだろう。そしてステレオタイプによるまなざしが持つ嫌な感覚には、おそらくもうひとつ重要なものがある。それは見下されているか、見上げられているかとは関係なく生じる感覚、疎外(alienation)である。疎外感を与えるメッセージとはは簡単に言えば「おまえはわれわれではない」という内容を持つメッセージだ。

俺を魔女にするな
自分がいかに攻撃対象にならずに他の誰かを攻撃対象とするか、これは人間という生物が繰り広げる社会的なゲームのひとつの重要な基本戦略となっていると思える。魔女狩りにおける魔女、そして社会における「ある分類上の枠組み」におけるマイノリティ、ここで見られる特徴のひとつは数的な多寡からもたらされる強弱の差である。軍隊同士の戦いは、互いの軍の規模の二乗に比例して戦況が決まる、という経験則がある(wikipedia:ランチェスターの法則)。自分が少数者に入るような「ある分類上の枠組み」は、そうした分類の仕方、ものの見方が広がること自体が、自分にとってリスクともなる。たとえば
・・・お金持ちは共産主義みたいな考え方が広がるのを恐れる。なぜって「貧乏人であるわれわれ」vs「それを搾取する少数のあいつらお金持ち」という分類枠組み、これに基づいて人々が動けば、数的な劣位のせいで、最終的にはどうがんばってもやられてしまうから。

終われないゲームのスタートボタン

われわれ/かれら、xenophobia、原因帰属、応報原理、統計的な認知

意図はない、にも関わらず偏見が実現される

遺伝子は俺の責任か?生態系は誰の責任か?