最近 思考がサクサク進む 社会性(sociality) 承認(recognition)

最近思考がサクサク進む。
最近は社会性(sociality)と承認(recognition)を軸にしつつ、日ごろ見聞きする様々な出来事を
生物学的かつ社会的な観点からいろいろと考えている。

以下、特にまとまりのないメモ。




一般に社会性や承認などといったことは、学問上、また人間理解や、自分を理解する上において、
「この上なく大切なもの」として触れられることはほとんどない。
しかしこれはどうも、人間の核だ。

もちろん それが全てだというわけではないが、少なくとも私たちの「意識的な生」、「主観的に経験される個人的な生」を考えるなら、社会性と承認は、コア中のコアにあたる概念だと思われる。

ここで僕が言いたいのは、「人間が協調的で互恵的な素晴らしい生物だ」とかといった意味で、ではない。*1

私が注目している点は、

私たちの行動の決定、感情の内容、気分の状態、これらを決定する要素の中で驚くほど大きい比重が、社会的な内容の情報、承認と関わる内容の情報で占められている、ということである。

社会性に関わる、または承認に関わる神経回路は、高等哺乳類の脳内において、相当に強く太い*2ものと思われる。

そしてこれらは重要であるにも関わらず、一般にほとんど語られない、または理解されてない、そのことが更にこれらのもの重要性を増している*3

たとえば私たちがお金でも職位でもなく、承認を求めて奮闘しているということさえ、現時点においてはほぼ皆無と言っていいぐらいに、語られることはない。

なぜそうなるかと言うと、ひとつには社会的欲求や承認欲求というのは当人にもうまく自覚することが難しいものということがある。加えて次に、こうしたことは「それを言っちゃあ、お終いよ」的な側面を持つためとも思われる。つまりこうしたことは、人間についてのかなり深いレベルのネタバレを含むため、と思われる。

歴史的には、こうした社会性や承認についての研究は、ヨーロッパ大陸の哲学者たちの間で、ちょこちょこと進められてきたようだ*4

こうした試みの一部は、社会学社会心理学といった形で、ある程度学問的な体裁を取った分野となっている。

しかし、当然だが、こうした問題は、より強固な科学のまな板の上に乗った時、初めて本当に面白くなる。

脳内において社会性に関わりがあるだろう部位は(半ば消去法的に*5)ある程度、見当はすでにつけられている。これはおおざっぱにいって、脳の前の方である*6。ここで社会的機能が、何らかの形で実現されているはずである。

こうした領域において、具体的にどういう形で社会性や承認として概念化されるような何事かがうまくエンコードされてるのか、それは恐らくまだ誰も知らないが、少なくともこの領域の構造を理解すること、それは、私たちを、そして自分自身を理解することの、おそらくは一番の近道なんじゃないだろうか、と自分には思える。

特にまとまりはなかった。

*1:残念ながら事実として人間は、そういうものではない。

*2:「太い」は比喩的な表現だが、脳の情報処理回路を道路網のように見立てた時、メインにあたる幹線道路のようなものとイメージできる

*3:何より重要なこととして、社会性や承認に関わる欲求については、「当人さえはっきり分かっていない」と思われる状況がおそらく相当に多いであろう事である。「性欲」や「食欲」がある時に、それを自覚していない人はそういないと思われる。そしてどうすればそれを満たせるか、満たすのにどれぐらいの手間・時間がかかるか、我慢するか・しないか、などは「性欲」や「食欲」の場合は、誰であってもそれなりにハッキリ見積もれると思える。しかし社会的欲求に関しては、それをはっきり自覚し、かつそれをすり替えや嘘ではなく、はっきり正面から言語化して相対化することは、おそらくかなり難しい作業となっているのではないかと思える。こうした「無能さ」は、違う観点からは、巧妙な自己欺瞞であるとして、それ自体を優秀な機能の一つと捉える場合もあるようである。

*4:サルトルの「まなざし」「地獄とは他者である」や、ホネットの「承認を巡る闘争」などが有名なようである

*5:消去法的というのは、大脳皮質において、視覚や音声情報の処理、感覚情報の処理や運動指令を行っている領域を除くと、脳の前の方と内側の部分がばっくり残るためである。ここらへんはその詳細の理解がほとんど進んでいない領域でもある。

*6:皮質では前頭前野、前帯状皮質、前頭眼窩、側頭極あたりが関わりが深いと考えられているようである。加えて、広域投射系(脳の広範囲の活動レベルをグワッと一気に調整できるレギュレーターみたいな回路)およびそれに直接的に大きな影響を受けやすい領域も、ある程度関わりが深いものと考えられているようである。