承認に関する不思議な序列 無関心<下方承認<上方承認

書きかけ(というか考える途上で書いてるので、時間がたつとかなりの部分が「うわー」という感じのものになる予定)


承認欲求という言葉は、日本語圏のブログおよび新書界隈では、一般に「他者に認められたい(有名になりたい、尊敬される状況になりたい)」的な欲求をさす意味で使われているが、

しかし「すげぇやつと思われたい欲求」というのは、実際のところもっと一般化された承認に関する欲求/性向の一部、として見るのが妥当と思われる。それは次のような欲求/性向である。

  • 他者の中での、自分の承認上の位置付けを、一ミリでも向上させようという欲求/性向

これはすごい分かりにくいが、二段階に分けて説明するのがいいと思う。




まず

  • 自分が他者の中でどう思われていそうか/思われることになりそうか

というシミュレーションを行う能力が人間にはある。たとえば「こんな事をしたと言ったら、あいつは俺のことバカにするだろうな」とか「これをうまくこなしたらあの上司は俺を褒めてくれるだろうな」とか「あんなこと言ったから、あいつ俺のこと嫌いになっただろうな」などと言ったシミュレーション、こうしたことを行う能力を、多くの(おそらくすべての)人間が持っている。こうしたシミュレーションの結果自体が正確なものかどうかは分からない。


東京大学物語、第7巻、38ページより。この作品での主人公は、自意識過剰な若い男性である。彼の自意識過剰性は作中で非常に誇張された形で描かれている。ほんのコンマ数秒の間に「これだと相手にこう思われる・・・だからこうしよう、いや、しかしそうするとこう思われる・・・ならば・・・云々」という先読みの先読み、まなざしのシミュレーションが高速で行われる*1。こうして自分が他者からどう思われているかを過剰に気にするコンプレックスの塊のような自意識過剰の主人公の特性、これが多くのドタバタが引き起こす鍵となっていく。それはこの主人公の他者のまなざしの読みが大抵失敗しているから(または承認上の地位の確保の為に繰り出される戦略があまりにも突拍子もないから)であり、それゆえにここが様々な悲喜劇発生の一つの起点となっていく。




そして次に

  • 無関心<下方承認<上方承認」(「関心を持たれないより下方承認される」ほうが良い、「下方承認されるより上方承認されれる」ほうが良い)

というルールに従って、自己の行動や状態の評価が行われているものと思われる。おそらくここはある種直感に反する部分であるが、子供が放置されるとかまってもらいたくてイタズラしたり、「ねえお母さん、みてみてー」としきりに「見てもらいたがる」といったものが身近に観測できる一番原初的な形の例と思われる。「かまってちゃん」というのも、それは具体的に何かをしてほしいわけではなく、かまってほしいだけ、つまり無視されるよりはマシな状態、になるのであれば罵倒でも嘲笑でも、一応目的が達せられる状態であろうと思われる。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」(The opposite of love is not hate, but indifference.)という言葉があるが(ユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルの言葉らしい)、これは承認に関する不思議な序列を表している句と見える。

これは人間のみに限った能力ではなく、猫や犬もこうした能力を持っていると思える(身近にみたことがないので分からないが、他のサルたち、霊長類一般もこうした能力を持っていると思う)。爬虫類などはこうした能力がない(または影響力がかなり限定的なものとなっている)ように思える。

ネット上には多数のネコの動画がある。ネコは人間の関心を惹くために、わざと相手の視界に入る、相手が認知的に反応せざるを得ないような振る舞い、つまり無視できない振る舞いをする、という行動パターンを持つようである。




ポイントは主に三つほどあるのかと思う。

  • 他者による自己の承認的位置づけのシミュレーション、この正確性は、自分のシミュレーション能力に依存する。ある場合にはまったく上手くシミュレーションが出来ないし、ある場合にはまったく見当ハズレでありうる。また「自己の承認的位置づけのシミュレーション」の内実の形成(いわば評価関数の実装)は、少数の他者、の影響の元に形成されていくと思われる。たとえば親であったり友人であったりだ。重要な他者Significant other)といった述語は、そうしたある個人にとっての特定少数の他者を表しているもの見ることができる。
  • 承認上の位置づけは、無視されるより劣位で認知される方がいい、劣位で認知されるより上位で認知される方がいい、という順序を持つ。無視される、というのは意図的な無視というより「えーと、あの人誰だったっけ?名前・・・知らないな・・・」とか「え、そんな人いたっけ?」的な「完全空気」としてしか把握されないこと、または個人として見られていないこと(「いつも言っているスーパーの店員の名前?しらないよそんなのw」的な意味で個人として見ない、または会社のオーナーが会社の従業員をただの数字としてしか見ない、つまり人間としてみない、といったこと)を意味する。おそらくここはある種直感に反する部分であるが、ネット上の荒らしや、時々発生する(社会に対する復讐的な名目で語られる)猟奇的な殺人には、こうした序列が生きていることが見て取れると思う。
  • 承認に関する欲求/性向は相当に強い欲求/性向である。にも関わらず、日常生活の中で、そのことが明示的に語られることはほとんどないと思われる。この欲求は時に生存本能さえ越える力を持っている(「奴隷としてだらだら生きるより、英雄として死んだ方がマシだ」という自爆テロ的な行為。これを可能にさせているのも、承認に関するシミュレーションの結果が脳内で非常に強い影響力を持っているからである)。脳内での意思決定を議会制民主主義に例えるなら、平時において圧倒的多数で与党を取っているのはおそらく、多くの議題に関して、この承認に関する政党である、という風に例えてもいいと思う。にも関わらず、性欲や食欲ほどに市民権を得ていない。まるでそんな欲求は大したものではない的な扱いしかうけていない。しかしこの欲求/性向の大きさは、ちょっと道端に出てみただけでもすぐ確認できる。数百円にこだわるケチな人は沢山いるにもかかわらず、服を買うお金がもったいないから裸で生活している、という人は、いまだに一人としてみたことがない。裸で歩いてたら恥ずかしいからだ*2。「背広を買うお金がもったいないから裸で出社させろ」、といった裁判もありそうにもない。*3

最後にこれは回路の話をしている。「人間ってこういうこと思うよねー」「だよねー」とかいう話ではなく、「ある回路が脳内にある。それがこういう思考・行動を引き起こしている」といったことを理解したくてこういうことを書いてる。やがて社会神経科学といった分野によってクリアーに取り扱われるはずであるようなことについて、ここでは考えている。

こうした心、心的機能について扱った話は話がボンヤリとしやすい。それは機能を語っているからであり、どういう述語がどういう現象に対応しているのか、またある述語が他の心的な述語とどういう関係にあるのか・全体の中でどこに位置づけられるものなのか、といった事がほとんどハッキリしないからだ。しかし最終的には神経系の「回路の構造」に基礎付ける形で、こうした話はより明晰に語りうるようになるだろう*4。コンピューターのプログラムが持つ機能について語るには、最後はソースコードを引っ張り出してきて語るのが一番状況がハッキリしやすいのと同様、心的機能について語るにも最終的には神経回路の構造を引っ張り出してきて語るのが一番状況がハッキリとするだろう。

関連リンク

  • wikipedia:心の理論 - 心の理論という言葉はよく知られてるし、そういう「機能」(他の人が何を考えてるかを推し量る機能)は実際多くの人が持つだろうが、当エントリーではその中でも特に限定的な領域(他の人が”私について”何を考えてるかを推し量る機能)と、その結果に対する自動的な応答の強烈さ、に焦点をあてている。
  • wikipedia:en:Attention seeking 日本語で言ういわゆる「目立ちたがり屋」や「かまってちゃん」
  • wikipedia:en:Significant other 重要な他者
  • wikipedia:en:Inequity aversion 不平等嫌悪。嫉妬、ひがみ、やっかみ。
  • wikipedia:en:Social inequity aversion これも不平等嫌悪。今のところなぜか二つに分かれている。

関連エントリ

*1:これがあくまで「漫画的誇張」であるのは、こうしたシミュレーションというのが、実際には非言語的で、内語をともなわない非常に高速で並列的なものである点にある、と思う。言語的にシリアルにひとつひとつ考えるのではなく、並列的に一気に処理が行われ、利用可能な対応の中から、高速で取るべき行動が一気に評価されて選択されると思われる。

*2:恥辱は「自己の承認上の地位の下落」が認知されたときに発生する感情と思われる。これはありふれた感情だが、恥辱を取り扱ったある本によると(どの本か忘れた・・・海外の女性研究者の書いた本の邦訳書だったと思う)、若者を対象にアンケート調査を行ったら、彼/彼女たちが最も恐れていた事象は、仲間に笑われること、バカにされることである、という結果が出たようだ。この恥辱という感情は行動決定において非常に重要であるにも関わらずほとんどその重要性が真剣に理解されてない忘れられた感情の二大巨頭、と個人的に思っている。恥辱と双璧をなすもう一方の雄は「退屈」と思っている。(ちなみに日常でほとんど正面から語られない(つまり忘れ去られている)が、社会的また政治的にもっとも重要な情動は「嫉妬」であると思われる。原始共産社会のような考えは嫉妬心(または不平等嫌悪)が主たる原動力となった思考の果てに現れる理想の一つであろう。中国の文化大革命カンボジアポルポトによる知識人層(というか本を読むだけとか、メガネをかけてるとかだけで知識人認定されるというハードゲームだったようだ)の大虐殺など、前世紀において最も多くの死者を出した社会運動の背景となる主たる衝動は「嫉妬」だっただろう。しかしこの嫉妬という情動は学術的にはあるていど活発な研究の対象となっている。なので、学術的な意味では「忘れ去られている」と言える感情ではないように思う)

*3:こういう裁判があったら赤旗はどういう立場でこの問題を報じるだろうか。ちょっと見てみたい

*4:実際のところ回路に還元する、というのはかなりの単純化された表現である。脳はケミカルレベルで動作しているマシンなので、回路のトポロジー(回路の配線の形)に還元して語りうる事象は神経系の動作のごく一部でしかない。薬物や毒物が心的機能に影響を与えるのを見てもわかるように、微小な数ナノメートルから数十ナノメートル・・オーダーの微小な化学物質がその動作を制御する。また(これはダマシオが「デカルトの誤り」で楽しそうに書いていたことだが)副腎皮質ホルモンが脳の動作を変調していることからもいえるように、私たちの心的現象は脳だけから綺麗に語りうるわけでもない。ちなみにこれを更に考えていくと、 「Extended Mind 拡張された心」 という哲学上の概念で語られるようなことが出てくる。つまり心的機能は必ずしも「人体だけ」から語りうるものでもない。学者の心的機能、たとえば学術的能力が周囲にあるノートや図書館の存在に大きく依存しているように、私たちが心的と考える機能は、必ずしも脳だけを視界に入れて説明しきれるわけではない。とはいえ、脳を経由していない限り何らかの現象が起きていても、私たちがそれを「心的なもの」とは呼ばないという意味においては、脳に注目することはいちおう合理的ではある)