社会的認知はどれぐらいのサブモジュールに分割できるか

以下、個人的なメモです
人間の持つ社会的認知の機能はどれぐらいのサブモジュールに分割できるだろうか?

より詳細でソースの付いてるもっとマトモなリストというのが、恐らくどっかにあるだろけど、それは多分英語だろうから読むのが面倒なので、自分で考えながら、随時書いていく。

こういうメモを書く動機は、社会的認知と関わる概念や言葉は、分野をまたいで実に多くあるにも関わらず。それらがてんでバラバラで分野横断的に理解していこうという流れが、あまり見えてこない状況に対する不満からである。

現代において人間の生活世界の様々なレベルで見られる問題のうち、重要でありそうにも関わらず、やっかいな問題または取り扱い困難(intractable)な問題と考えられているものがある。たとえば・・・

などなど。実際のところ、私はこうしたタイプの問題の背景には「人間の持つ社会的認知の回路の仕様」が、共通的な中心要素として根底にある、と考えている。つまりこうした問題が取り扱い困難(intractable)に見える理由というのは、人間が持つ社会的認知の回路の仕様について私たちがほとんど何も理解していないからだ、と(最近そう思うようになった)。そしてこうした問題が取り扱い困難であるにも関わらず、いつもどこからともなく私たちの前に現れてくる問題となるのは、こうした問題が「私たちの脳の中で大きい比重を占めている社会的認知の回路の仕様」から現れている問題だからだ、と。つまりどこに住もうと、どれだけ時が流れようと、同じような脳を持っている限り、同じような問題が表れてくると。*1


こうした着想を背景として、色々な分野で議論されている様々な概念を関連付けながら列挙しつつ、人間の持つ社会的な認知の機能の詳細について、些細なものではあるが個人的に少しでも理解を深めていく、(そしてそれを通じて現実的な取り扱い困難な問題に対する何か少しでも明晰な視座が得られれば)といったことを考えてこのメモを書いている。

ここから書くメモはかなりえぐい内容を含む。しかし心意気はポジティブである。希望がもしあるとすれば、それは明るいお花畑に咲く一輪の花ではなく、暗いトンネルの先にほのかに見える輝きのようなものとしてしか、ないだろう・・・的な。・・・・うーん・・・これはいったい何キャラだ。

1.社会地図(Social map)。これは自分の勝手な命名だけど、私たちは個体の区別が行える(あの人は太郎くん、あの人は花子さん、あのおじさんは村長さん、などなど)。そしてそれぞれの個体に属性を与えることができる(太郎くんはこわい、花子さんはぼーっとしてる、村長さんはおもしろい、などなど)。そしてそれぞれの個体同士がどういう関係にあるかを記憶し保持できる(太郎くんは花子さんが好きだ、でも花子さんは太郎君にぜんぜん興味がない、村長さんは太郎君と花子さんの関係について知っているが遠くから二人の関係を見ているだけだ、など)。こうした全体を「社会地図」と私は勝手に呼んでいる。「個体-性質-関係」からなる社会全体の地図である*2。こうした情報記録形式は、「個体が性質を持つ」的な保存方法を取っているという点において、プログラミングにおけるオブジェクト指向の考え方と似た部分がある(wikipedia:オブジェクト指向)。しかし個体間の「関係」が重要な要素となっていることを踏まえるなら、情報科学におけるオントロジーと見る方がより近そうである(wikipedia:オントロジー (情報科学))。で、こうした社会地図には保持できる情報量に限界がある。そうした上限のひとつの目安となりそうな数として、ダンバー数wikipedia:en:Dunbar's number)という数がある。相互関係まで含めて個体識別を行える集団成員数の上限のことで、人間ではおよそ150人ほどが上限だと考えられている。さて、この社会地図というのは、脳のどこかに実際に「ある」だろうか?現在までに脳内にはいくつもの「地図」があることがすでに知られている。たとえば体性感覚野と運動野にある地図(wikipedia:en:Cortical homunculus)、視覚野にある地図(wikipedia:レチノトピー)、聴覚皮質にある地図(wikipedia:en:Tonotopy)などである。

これはおばあちゃんについて認知するときに活動する「おばあちゃん細胞」(wikipedia:おばあちゃん細胞)みたいなものがあるのか?という話の延長線上だが、社会関係を表象している地図というのは、脳のどこかにあるのだろうか?私は「ある」と思っている(勝手にあると仮定して色々妄想している)。*3
2. 社会的比較(Social comparison)。これは心理学業界の学術用語で、別に私の勝手な命名ではない。これは「誰かと誰かを比較する」ことを意味する。「あいつと俺と、どっちがモテるか?」「昔の俺と、今の俺と、どっちが良かったか」「憧れのあの人に、俺はどれぐらい近づけたか?」みたいなことである。こうした比較が可能であるからこそ、その結果に応じて、自己や他者を相対的な枠組みの中で評価する、という事が可能となっている。劣等感や優越感はこうした比較の後に主観的に経験される感覚だし、嫉妬や妬みもまた同様である。小泉元総理のフレーズを真似て言うなら「比較なくして嫉妬なし」といった所だろう。ちなみに社会的比較のもっとも原初的な形は、おそらく「俺とお前とどっちが強いの?」という所だったと思う。アラレちゃん的に言うと「つおいの?」である。この機能は進化史的に見ても、相当古い機能であると思える。ある個体と対峙したときに、戦って勝てそうか負けそうかを判断する。つまり勝てそうなら戦うし負けそうなら逃げる。すなわち「闘争か逃走か」(Fight or flight wikipedia:闘争か逃走か)を判断するための彼我の強弱の査定機能、これが人間において行われている他の側面も含む比較機能、これの原型となったのではないかと思われる。私たちが社会的比較の対象とするのは多くの場合、卓越性(Superiority、Excellence)に関わる特性である。要はどっちが上か、下か、どっちが勝ちか、みたいな形で特性の比較を行うのがクセのようだ。ちなみに電気回路において、電圧の高低を比較してその結果に応じて出力を変える機能を持つ回路は、コンパレーターと呼ばれる(wikipedia:コンパレータ)。少なくとも「比較」という作業自体はニューロンにとってはそれほど難しい作業ではない。しかしながらいったい神経ネットワークにおいて具体的に何がどのように表象され、どのような過程を経て社会的比較の計算が遂行されているか、そこらへんはまだ曖昧模糊としている。
4. 承認欲求、まなざし
5. アイデンティティ、自己物語。「私はこれこれこういうものである」という自分を表現するストーリー。こうした物語によって規定される一定の固定したものとして想定される自己は物語的自己同一性 wikipedia:en:Narrative identityなどとも言われる。これはエピソード記憶wikipedia:エピソード記憶)の集積によって形作られるイメージと思える。経験されていくエピソードの集積を通じて、そこから一貫した自己像の生成に失敗した場合、それはアイデンティティー危機(wikipedia:en:Identity crisis)などと言われることがある。
6. われわれ/彼ら。「身内/よそ様」、「仲間/それ以外」。こうした区別を人間は無意識に一人ひとりの相手に対して設定していく。こうした区分の最も古い起源は、おそらく血縁的近縁を把握する機能だったのだろうと思う(wikipedia:血縁淘汰wikipedia:包括適応度)。そうした機能が様々な個体に対する「われわれ/彼ら」的な属性付けの始まりとなり、今も日常生活の中で活発に機能し続けているのだと思う。こうした属性付けの後に現れるひとつの変化は、為した属性付けに応じて道徳的対応が変わることである。「我々同志は殺しあってはならない、しかしやつらは殺してもいい」。属性付けに応じたこのような行動原理の峻別/区別が可能となっているからこそ、たとえば虐殺のようなことが、今もひっきりなしに世界中で起きる事となる。ちょうど関連したニュースが流れてたのでリンクしておく。*4

7. サディズム、攻撃性。競争。いきなり非道徳的な内容だが、人類の歴史は戦争の歴史だといった言葉があるくらい、現世人類は本当に攻撃的である。ここで私が言っている攻撃は、身体的なものから、そして精神的なものまで広く含んで書いている。つまり戦争からスポーツ、囲碁将棋から、日常会話の中で他者をおちょくったり、からかったりすること、ジョーク、批評、風刺的な「口撃」などまでを含むものである。こうした広い意味での攻撃とは何か、と考えると、軽重の違いはあれど大まかに言えば「相手を打ちのめし、恥辱を与える(周囲から見た/または本人から見た承認的地位を低下させる)こと」これが勝利条件となっているようなゲームにおける個々の行為、それが攻撃であると言っていいかと思う。こうした広い意味での攻撃に関して言えば、基本的に人(敵)を攻撃することは楽しい行為であるし、そして人(敵)が攻撃している/されているのを見るのも楽しい経験である(とはいえ、これはとても微妙な所である。スポーツ観戦は多くの人が好んでも、ジェノサイドについて見るのは多くの人は好まないし、むしろ不快ですらある*5)。スポーツ観戦やケンカのやじうまなど、まあ面白いものであるから皆見ているのである。戦争で敵の軍艦を撃沈して白旗を揚げさせること、これは攻撃だし、選挙戦において対立候補のスキャンダルを流して票を減少させること、これも攻撃と言える。実にけしからんことだが、この欲求はヒトにおいて、(パーソナリティにもよるが)かなり、そして相当に強いと思われる。人がいったいどれほどの認知リソースを攻撃的行為、攻撃・闘争と関わる行為に対して費やしているかは、ちょっと簡単には想像できない。戦争はもっとも直接的な攻撃性の発露だが、当然それを模したスポーツや、ネットにおける対人ゲームなども、攻撃行為の連鎖から成り立つ。また、多くの人はあまりそれを攻撃的行為と考えないが、ワイドショーなどで取り扱われるスキャンダル報道も、攻撃性を背景として初めてネタとして意味を持つようなものが多い。つまり「高い承認的地位を持つ者が、恥辱を受けて、承認上の地位を低下させる」この過程を多くの人が遠巻きに眺めて楽しむのが、スキャンダル報道というものの中心的要素と思える。そしてこうしたもののより身近な例として「悪口」なんてものがある。

ドイツ語にあるシャーデンフロイデwikipedia:シャーデンフロイデ)という言葉(人の不幸を知って湧き上がる喜びの感情)は、その一部として、こうした「他者の承認上の地位の下落」を喜ぶ感覚が含まれていると思われる。
5. 道徳。上の項を受け継ぐと、攻撃性の奔放な開放に対する抑制は、道徳のひとつの内容となっている。旧約聖書などは攻撃的な行為のオンパレードで、殺し殺されの血なまぐさい物語で埋め尽くされている。
6. 知能
7. 真似 mimic 他者の行動を真似る能力が私たちにはある。かなづちの使い方、これは他者が使っているのを見れば自分もできるようになるだろう。「木の実の割り方」や「木の登り方」の個体間での伝達を視覚情報のみを通して行えることは、なかなかに便利な機能だったろう。とはいえ、そうした単純な真似、模倣はこのエントリの文脈においてはさほど重要ではない。このエントリの文脈で注目したいのは ワナビー(wannabee)のような現象である。なんらかの意味での強者の「行為」や「装い」を真似る特性が、私たちにはある。1990年代にキムタクの真似をして多くの若者が髪の毛を伸ばしたり、現代において有名人がブログで商品をステマするとそのライフスタイルを真似たいという心理からファンが商品を購入することがある、といった例があるだろう。
8. 役割、期待
9. 心の理論、意図推定
10. 遊び
11. 表情、姿勢、声色、ボディランゲージ
12. 遺伝的多様性。社会的な個体間の相互作用を考える上で、遺伝的多様性は多分けっこう重要である。日常的な感覚と生物学的な視点が最も食い違うであろう点を、たとえば性格的側面について一言でまとめると「パーソナリティは戦略である」というような表現になるかと思う。これは精神医療と進化心理学が葛藤せざるを得ない場面の問題ともいえるだろう。「なぜサイコパスなんていう不道徳で危険な輩がいるのか?」「おそろしい」というのは普通の反応かもしれない。しかし生物学的に考えれば、ある形質が進化的に有利なら(つまり子供の数を増やすのに有利なら)、どんな形質であれ、それが遺伝性を持つなら、その形質は遺伝子プールの中でどんどんと数を増やしていく。
番外. 原因帰属。「こうなったのはあいつのせい」「うまくいったのは俺様のおかげ」といった何らかの現象に対し、それを引き起こした原因を何か(誰か)に帰属させる機能。これが社会的文脈で初めて生まれたものなのか分からない(まだあまりよく考えたことがない)。しかし社会的文脈でこの機能が果たしている役割はとても大きい。たとえば「責任」という概念は、基本的に何かあったときに原因帰属を受けることとなる立場・状況を意味する。大きい社会現象に対して原因を求めて政府を批判したり、世界のあり方に対する批判の対象として神を責める(「抗議の神義論」(theodicy of protest))、といった行為を私たちはなすことが出来る。
番外. 目的論。目的論的思考を行える能力は、社会性を直接のターゲットとして進化したものではないと思う。けれどいくつかの社会現象において目的論的思考を行う能力とその特性は結構重要なものとなっているように思う。なので番外として一応リスト。

関連リンク

  • 鬼女まとめ速報 主婦・既婚女性の色々な愚痴・苛立ちがまとめられている。主に家族・親族ネタでそれぞれは身近なエピソードだが、個々のエピソードについて、どういう神経経路を通ってそれが苛立つこととして認知されたか、どういう神経経路の活動を通じてこの人はこうした行為をしたか、といったことを考え始めると結構色々と難しい。つまり「何となくイヤであったろう」ことは分かっても、ではそれがなぜか、ということをはっきりと言語化するのは結構難しいし、どのようにしてか、と回路レベルのメカニズムを想像することはもう一段階難しい。

*1:私たちの社会的認知の機能は、東西冷戦のような大仰な戦いを対象として進化したものではない(そんな大規模な戦争は進化の過程で起きてこなかったから)。むしろそれは非常に卑近な小規模集団中で動作すべく回路として洗練されてきたものだろう。現在多くの人々の間でそうした回路が使用されている主な領域は、たとえば
-社内政治における闘争・立ち回り
-スクールカースト内での闘争・立ち回り
-ママカースト内での闘争・立ち回り
といった用法が多分ほとんどを占めているだろう。

*2:こうした認知は本当にもともと「個体、一人一人の人間」を対象としていただろうが、外交関係などの集合的対象について理解する際にも、この社会地図の機能がそのまま流用されているようである。「アメリカは狡猾だ」、「中国は危険だ」、「アメリカは中国を警戒している」など。国際関係を擬人化して描いたヘタリアwikipedia:ヘタリア)のような漫画を「理解ができる」ということは、私たちが集合的対象の認知をどのように行っているかを示唆していると思える。

*3:妄想の一つとして、最近Twitterで「あべしね」と書いて何だか話題になっていた翻訳家で平和活動家の池田香代子さん(wikipedia:池田香代子)の書籍について思ったことがある。彼女は「100人村」という興味深い思考実験について本を出版して問題を有名にした人である。「世界がもし100人の村だったら」という作品だが、「世界を100人の村と考えると、こんなに世界は不平等だよ!ひどいね!」という内容の本だった。wikipedia:世界がもし100人の村だったら

世界がもし100人の村だったら

世界がもし100人の村だったら

昔この本を読んで「うーん、そうだな、ひどいものだなぁ」と素朴に思ったが、同時に何かひっかかるものがあった。当時ひっかかっていたことが何だったのかそれが最近やっと分かった。それは世界が100人の村ではない、ということだ(当たり前だが)。現に100人ではなく70億人いるという事、これが実際にどういう差異を生み出すのかは、ダンバー数wikipedia:en:Dunbar's number)との関係でおそらく一番よく理解できると思う。ダンバー数(約150人)の上限を超えた所から先は、私たち個々人の認知の中で、他者というのは「われわれ/彼ら」という対立軸における単なる「彼ら」、または何者かでさえない「何か」の位置に行かざるを得ない。その位置は「われわれ」に対してとは、道徳適用のあり方が変化してしまう。日常的な言葉で言うと、気遣いが届かない、共感の鎖が切れる場所に行ってしまう。今回の池田さんの発言についても、もし彼女が100人村の住人だったら、最近出てきた村長?が少々好戦的?排外的?弱者切捨て的?だったからと言って、そこでいきなり村長の名前を呼び捨てにして攻撃するなんてことはなかっただろう。「最近しんちゃんが村長になったけど、あの人のやり方、わたし好きじゃないわ」とかが関の山だったんじゃないかと思う。今回は池田さんの中でも、安倍氏は「われわれ/彼ら」という対立軸における「彼ら」の位置、または何者でもない単なる総理大臣という「何か」または「記号」の位置にしかいなかったのではないかと思った(色々と考察を巡らした果てに「安倍は死ぬべき」と冷静に考えたのかもしれないが、本当に冷静にそう考えていたなら黙って殺す準備をしていたのではないかと思う。殺さなきゃいけない相手がいたら、あいつをころす!みたいなことは、ある程度 計算高ければ普通わざわざ言わないから。ちなみに排外主義的な空気は別に安倍氏が作り出しているものではないから、それを変えるなら、もっと別の場所、たぶんCIAとか、そういう所を動かしてる人とかを何とかしないといけないと思う。アジア統一を警戒してなのか、または中国の拡大を懸念してなのか、そこらへんの動機はよく分からないけど、お金かけて日本で広報戦略してる人たちが、後ろに多分いる(もしくはプレスコードを一部緩めたたけなのかもしれない)。そういう所を何とかしないと多分なんともならないかと(日本のかつての学生運動が、別に当時の日本の学生だけの運動ではなかったのと、ある程度は似ているだろうと思う。とはいえネットで大流行の嫌韓ネタは、政治的な背景もあるが、ネタとなってしまう一番の原因は、朝鮮半島の人々の間で、おそらく遺伝的であると思われる得意なパーソナリティが、実際に一定の比率で存在していることにある、と思う。変な話だけれど、2chで生まれた二ダーのキャラは、単なるステレオタイプではあるにも関わらず、実によく朝鮮系の人々の間にある不思議な性格を現していると思う。Korean Personal Genome Project の発表によれば 約60,000の韓国特有のSNP(wikipedia:一塩基多型)が見つかっているということである(Korean Genome Project Finds Korea-Only SNPs. By Allison Proffitt, September 13, 2011)。ここのどこかに、ああした不思議なパーソナリティを生み出す元が、多分あるのだろう。ちなみに日本のネットではほとんど朝鮮系の間に見られる特有のパーソナリティ・特性は悪しきもの・笑うべきものとしてしか扱われない。しかし生物学的に言って、当然そういうことはありえない(また個人的な日常の経験からいってもそういうことはないと感じる)。個人的な感じとして、利害関係が複雑に絡み合った変化の激しい場所で、個人で短期決戦を繰り返し続けながら生き残りを目指す、そういったタイプのゲームでは朝鮮系の(ステレオタイプ的な)パーソナリティは確実に強いと思える(簡単に言えばパーソナリティがばれるまでに勝負が終われるゲームなら強い)。逆に日本人の(ステレオタイプ的)パーソナリティは安定した環境における長期の持久戦で蓄積の差で勝ちが決まる集団ゲームのような環境に向いていると思われる(というかそういうゲームにしか向いてないようにも感じる)。個人的にこうした「様々なパーソナリティが持つ利点・弱点とその進化的起源」といった話は、思索の内容としてかなり面白いと思う。しかし政治的・感情的な話が混じって、話題として気軽に取り扱える時代はなかなかすぐには来ないだろう。かなり話が脱線した。

*4:この報道では性善/性悪という概念を軸にして研究内容が紹介されている。(もちろんキャッチーだからこういう言葉を使っているのだけだろうけど)しかし性善/性悪という分け方は少し軸がずれている。この点については以前のエントリーでも書いたが、進化は進化というそれ自身独自のネズミ算式原理だ(「進化は今・ここで、私達に起きている」2012年07月01日(日曜日))。だから「進化は幸・不幸を気にしない」。生まれてきた個体や、また生まれてきた個体の周囲が、どれほど不幸になろうが、そんなことは進化は気にしない。数が増えればそれでいい。これと同じく「進化は善・悪を気にしない」。どんな悪逆非道な行動パターンだろうと、ひれ伏してあがめたくなるような自己犠牲的な行動だろうと、別に進化はそんなこと気にしない。数さえふえればそれでいい。それが進化である。

*5:攻撃を楽しんで見ていられるのは、その攻撃のやり口・バランス等において道徳的違背を見つけない限りにおいて、であると思われる。ガチの戦争だと、見ているだけで嫌悪感や怒りが沸いてくることが(少なくとも私は)多い。それは正々堂々とした互角な戦いでないからか、または正義や誠実性が欠落した戦いであるからと思える。道徳的な意味でのバランスの喪失を見た場合、今度はその攻撃を引き起こしている者を攻撃したくなる。こうした場合の攻撃は一般に「仕返し」「報復」「裁き」などと捉えられるだろう