カーストゲーム、または優越感ゲーム

このエントリーを書いた10日後ぐらいに優越感ゲームという言葉を知った。その言葉の方がいいかもしれないが、このエントリはそのまま残す


私たち人間のいきる生、それをカーストゲームと呼んでみる。

私たちの日常は、カーストゲームをプレイすることで過ぎる。

このゲームはやめれない。どれだけくだらないと思っても、逃げられない。

なぜならゲーム上での報酬やペナルティが、脳によって直接与えられるからだ。

このゲームから逃げることは難しいが、とはいえ逆に、完全に没入してカーストゲーム廃人として生きることも、また辛い。

おそらく「中庸」といったことが、このゲームに対する関わり方のひとつの現実的な指針なのだろう*1




さて、この概念は面白い(と個人的に今、思っている)。

人間とはどのようなものか」と問う。主観的経験(意識経験)に現れる主たる構成要素を考えた場合(または行動決定において大きい比重を占めている要素を考えると)

この問いには「人間とはカーストゲームのプレイヤーである」と答えるのが、もっとも正しい解答なのではないかと思う*2

人間を規定する性質として「遊ぶ」「直立二足歩行する」「道具を使う」「火を使う」といった性質が使われることもあるが、こうした物事が主観的経験として大きい比重を占めているとは思えない。また行動決定の際に常に参照されているような大きい影響力を持ったものとも思えない*3




ちなみにこのことは、普通に生きている人ならおそらく誰でも知っている事である。つまり当たり前のことに名前を付けてみただけである*4

特殊なことについて思考したいという場合以外、この概念には現実的な意味はあまりない。

個人的には人間を自然の中に位置づけること、人間と自然をシームレスに理解したい、という背景からこうしたことを考えている*5


関連エントリ

関連リンク

  • wikipedia:力への意志 19世紀末にニーチェが言った言葉。かなり形而上学的な概念としてだが、力を求める傾向が広い範囲で色々に形を変えて見られる、といったことを指摘した。とはいえ現代の学問での使用にも耐えうるようなはっきりとした心理学的な概念として提出されたわけではない(現代の心理学へも様々に形を変えて受け継がれてはいるようであるが)

追記(2014年6月18日)
ネット上にはすでにもっと語呂のいい概念が存在していた。

これは語呂がいいが、一対一での上位取り、みたいな状況が主に想定されてるように思える点で、自分が考えてる現象より少し描写しようとしている対象が狭いようにも思える。つまりこの名称では「つながり」の側面の描写が弱い。たとえばいじめを通じた優越感の獲得という現象においては、「誰かが誰かより優れている」といったこと一対一の比較というより、連合の状態、つまり「各個人と各個人のつながりの中における己が取る相対的な位置」といったものの方が、現象を理解するうえでの重要な鍵となる。これは国際政治において、個々の国の軍事力・経済力よりも、多国間の関係の中でのその国のとっている位置、のようなものが交渉力を生み出す源泉として重要となりうる、みたいなことと似ている。というわけで、こうした側面を今から私の中で、「つながりゲーム」と勝手に呼ぶことにする(なんでもゲームと呼んどきゃいいのかよ・・・みたいな気がしないではないが)。

*1:「俺はそんなゲームを生きてない」と思う人もあるだろうが、これはおそらく程度の問題である。ネトゲ界の用語で「ガチ勢」と「まったり勢(またはエンジョイ勢)」という言葉がある。これはあるゲームに対する取り組みの真剣度の違いを表した言葉で、本気で血眼でプレイしている人はガチ勢、楽しけりゃいいよ的にのんびり遊ぶ人はエンジョイ勢、といった意味である。多くの人は、人生上のほとんどの時期において、カーストゲームというゲームのエンジョイ勢である、といった所があるていど実感に近いかもしれない。

*2:もちろん、こう言ってしまうと人間と犬なんかの区別ができなくなる。しかし犬なんかは、意識的経験の内容に関して社会的な内容が大きい比重を占めていそう、と個人的に想像されるので、そういう意味で、ヒトも犬も主観的視点からはかなり似てるのではないかな、などと勝手に思っている。↓ちなみにイヌが撮影したミュージック・ビデオ。このビデオをみながらよく「犬であるとは、どのようなことか」を考えてる。(U^ω^)わんわんお! イヌが撮影したミュージック・ビデオより

*3:「社会的動物である」「政治をする」といった規定が使われることもある。これはかなり近い(特に「政治をする」の方)と思える。とはいえやはり、個人的には微妙にズレた規定のように思える。それは「政治をする」という言葉に必ずしも目的や方向性がはっきりと含まれていないからである。アメリカの大規模な集団的政治行動を例に見てみると、公民権運動(黒人の地位向上を目指した運動)やゲイパレード性的少数者の地位向上を目指した運動)、また米国の製造業を侵食している日本製商品に対するジャパンパッシングなど、政治的活動は一般に何らかの意味での地位向上(または地位低下の防止)を目指して行われているように思える。逆の政治活動もあってもいいと思うが、私は知らない(「我々を今すぐ奴隷にしろーー」「私の賃金を引き下げろーー」とか・・・ないですよね・・・)

*4:どんな人間も、基本的にプロのカーストゲームのプレーヤーなので、コミュニケーションの中で、こうしたゲームはどのようなものか、みたいなことが語られることは普通ない。いわゆる常識というものの範疇に属する。たとえば「人に褒められて喜ぶ」といった現象だけを考えてみても、これは分かる。「褒めるっていうのは、これこれこういう事なのよ」なんて教えられたことがあるだろうか?おそらくほとんどの人は特にないだろう(私もない)。しかし褒めるというのがどういうことかはみんな知っている。また「喜ぶってこうするのよ。ほら、口の端をちょっと持ち上げて、目を三日月みたいにして・・・そうそう、それが笑顔ってやつよ。」こんなこと教えられたことがあるだろうか?(私はない)。しかし喜ぶということがどういうことかはみんな知っている。人はもともとプロのカーストゲーマーなのだ。ちなみに人間が文化圏や宗教宗派によらず普遍的に持つと考えられる共通した性質は、ヒューマン・ユニバーサル(wikipedia:ヒューマン・ユニバーサル)と呼ばれることがある。

*5:なぜ多くの知識人がこうしたことを正面から見つめないかは個人的にはよく分かる。それはこうした物事が思考するにはあまりに汚い対象だからだ。学問といえば、静謐で、穏やかなものといったイメージがあるが、こうした問題はそうしたことの真逆にあるものだ。というか人の日常の思考内容の多くは、ほとんどの場合自分個人のカーストゲームにおける立ち回りに関わるものであろうから(どれぐらい直接的か間接的かは別として、現実的とか、日常的とかいうのはそういう意味である)、それにウンザリした時、自分がまだ生まれていなかった遠い昔のことや、どっか遠くの星のことについて考えたくなるのかもしれない。または学術的営為を推進している背景的動機のひとつである「高い社会的ステイタスの誇示」的な観点から見れば、大量のエネルギーを注ぐ対象は、なるべく現実に役に立たないものであるほど良い、という面もある。カネにもならない、パンにもならない、無駄で役に立たないことに労力をそそげる私たちは豊かである、という自己呈示である。あともうひとつ大切な点として、西洋圏であれば、ここから宗教への移項、または宗教が果たしている役割とのオーバーラップが出てくるという点がある。「他者からのまなざしを通じた自己承認」これが脳内で非常に強い影響力を持っていることと、「まなざす他者としての人格神」を仮想(信仰)する一神教の文化がこれほど広く世界中へ広がっていること、この二つの間には密接なつながりがあるだろう。