嘔吐を催す不条理

嘔吐を催すような不条理について思考すること。

自分がいま最も嫌悪感を感じること、それは進化について思考することだ。

進化というメカニズムの悪魔性を見つめることだ。

進化によってもたらされる人間の遺伝的不平等(遺伝的多様性ともいう)と、

そこからあらわれる凄惨な詐術と暴虐の歴史を見つめることだ。

このことにに目をつぶることはできる。必死で否定してみせようとすることはできる。しかし目をつぶっても、どれだけ批判してみても、自然はそんなことは構いはしない。

我々が自然の一部であるということ、それは私たちもまた不条理が支配する世界に生きているということを告げる重い判決だ。

世界を美しく物語り化すること、それが信仰という行為のひとつの重要な仕事であるとするなら、

進化について真剣に思考すること、それは信仰という行為の真逆に位置しうる最も醜い行為の一つと言えるだろう。

理性も道徳も、そこでは単なる道具でしかないからだ。

にも関わらず、進化には外部がない。逃げ場がない。

私たちは常にその内にいる。

そこに向かって私たちが何を働きかけようと、

進化は為されたすべてを内側へと呑み込んでいく。

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  • おぞましさの美学の帰趨 : 「吐き気」の芸術的表象について(PDF) 長野順子 美学芸術学論集 6, 3-20, 2010-03, 神戸大学 長野氏のデリダ解釈によれば、「ロゴス中心的な体系」全体を破壊し、あらゆる「ヒエラルキー的な権威」そしてあらゆる「エコノミー」を破壊する、「表象不可能なもの」が「吐き気」を催す、とデリダは考えたらしい。またカントは『判断力批判』の中で吐き気について次のようなことを書いたらしい。この吐き気という奇妙な感覚は、想像だけにもとづき、いわばそこでは対象はあたかもそれを呑みこむ〔摂取する〕よう迫ってくるものであるかのごとく表象されるのだが、それに対して私たちは力づくで抵抗する