ゲーム化されない「つながりゲーム」

前置きとしてカーストゲーム、または優越感ゲーム
要約:優越感ゲームは私たちの行動決定や意識的経験の内容を決める要素として大きい比重を占める。しかしそれと並んでもうひとつ重要な別のゲームがある。それをつながりゲームと呼んでみる。
ヒトが行っている行動を決定する大きいファクターとして、また主観的な意識経験を大きく変化させる要素として、上下・優劣をめぐる闘争、という現象があることを考えた。

たとえば

  • 俺の方が100メートルをはやく走れる(陸上選手の場合)

なんてのが分かりやすいが、日常の中で見慣れているようなものだとこんなのだろう*1

  • 俺の方が高い服を着ている
  • 俺の方がいい車にのっている
  • 俺の方が広い家に住んでいる
  • 俺の方がいい学校を出てる
  • 俺の方がでかい会社につとめてる
  • 俺の方が収入が高い
  • 俺の嫁さんの方がかわいい
  • 私のほうがスタイルがいい
  • 私のほうが可愛い
  • 私の旦那のほうが年収が高い

とかなんとか。こういうのがよくある優越感ゲームのゲーム領域だ*2

ちなみに、このリストは際限なく伸びる。ジョークみたいにどこまでも伸びる*3


とはいえ、こうしたゲームは私たちがいきている生をゲームとして捉えたとき、大きい要素ではあるものの、その内容の一部の側面しかあらわしていない。もうひとつ重要な要素として「つながりゲーム」とでも呼ぶべきようなものがある。ここではその概念化をちょっと試す。



つながりゲームとはどんなんだ
要約:つながりゲームは各個人と各個人の合従連衡、離合集散に関する立ち回りにまつわる行為全体を、まとめてそう呼んでみた、という概念。
要約:すごいメジャーなゲーム(人間であるかぎりほぼプレイし続けている)。なのにあまり語られない。

つながりゲーム」、これは各個人と各個人の合従連衡、離合集散に関する立ち回りを巡るゲームだ。

誰と誰が仲が良い悪い、誰と誰はいつも一緒にいる、誰は誰のことが好きだ嫌いだ。

私たちは、自分以外の存在するすべての他者と、完全に均質な関係を作るのではなく、一定の偏りと差異を持った関係を構築する。

そうした関係構築と関わる色々な事象を丸ごとひっくるめて、とりあえず「つながりゲーム」と呼ぶ。

私たちは誰もがこのゲームのプレイヤーだが、日常的にこうしたこと、たとえば友人関係などを、ゲームとして遠い視点から俯瞰して語ることはそう多くない。むしろ日常的語彙の中では、好き嫌いだったり、気が合う合わないだったり、そうした種類の語彙によって、主にこうしたゲームは語られる。

こうしたゲームの性質が、一番赤裸々かつ破廉恥に語られるのは、現代においては主に国際外交に関する報道・論評の中だろう。外交に関する報道・論評の中では、「どこと仲良くしといた方が得だ」「あんな国と付き合っていても大して得がない」なんてことが普通に発言される。しかし日常の個々人の人間関係(つまり私たちが生きているミクロレベルのつながりゲーム)に関することであれば、こういうことを名前を出して公の場で赤裸々に語るなんてことは、ほとんどありえないだろう(これは「ゲームについて語る」行為自体が、ゲーム内において一定の意味をもつプレイに自動的になってしまうから、という理由が大きいだろう)。

ここで私が注目したいのは、このゲームの強烈な普及度(そして行動決定において参照される頻度の高さ、主観的意識経験に対して与える影響の大きさ)と、にも関わらずのその正面からの「語られなさ」である。



なぜ語られないのか
要約:語られるのは小さなサブゲームについてで、その全体(という仮構)は意識されにくいし、語られない
要約:ひとつひとつのサブゲームの結果によって、つながりの状態が変遷していくが、すべてのサブゲームが一致してめざす全体としての狭い方向といったものは特にない(ゆるい方向性はある)

実際こうしたことがゲームとして俯瞰して語られないことは、主観的な経験のあり方にも、一定の理由があると思われる。(非形式的な日常レベルの)人間関係を駆動する源泉の大部分は、私たちが持つ単純な衝動であると思える。それは微視的な非常に局所的なものとして現れ、そしてそうした衝動に従った一定の行為の結果が積み重なっていくことで、時間的に変遷を続けるつながりの状態が作られていく。たとえばプライベートの領域で新たに誰かに会った瞬間、いきなり「よし、一年半後にこいつと親友になりそうだから、これこれのステップを踏んで、こういう過程を経て仲良くなっていこう」こんなこと考えて行動し始める人は多分あんまりいないだろうと思う(いないこともないと思うが、一般にはまず「どんなやつだろう」とか「気が合うかな」とかいう「探り」から関係が始まり、「遊びに行って面白かった」とか「あんなこと言うなんてどういうつもりだろう」とかいった小さなことが積み重なって関係が進行していくだろう*4。これは関係構築というのが、多くの場合(とりわけ私的な領域での関係では)ダイナミックな相互作用として行われるからと思える。つまり互いの関係がどういうものになるかは、自分次第、相手次第、状況次第、運次第といった所が大きい。友人関係というものも、あとでざっくり振り返れば「いつどこで出会った、だんだん仲良くなった、今は友達」みたいにまとめられてしまうだろうが、実際におきていた相互作用の過程、実際に経験された日々のやりとりはランダムウォークのような複雑な線を描くだろう。つまり「脳から発せられる小さい命令」たとえば「さびしさ→誰かと会ってお話せよ」「しっと→相手を引き摺り下ろしたまえ(あの二人の関係をひきさきたまえ)」「恐怖→そいつから遠ざかれ」「退屈→なにか興奮すること探せ、誰かと遊びに行け」といった小さい命令、こうした衝動に襲われると、そのことは明晰に意識される。そしてそれがうまく充足できそうにないと「この衝動をどうしてくれようか」などとさえ思い悩むこともあるだろう(たとえばしっとなどは特に充足が難しい衝動の一つだろう)。

私たちは多くの場合、こうした微視的なサブゲームを日々生きている。だからサブゲームについての語りは日常でもネット上でも溢れ返っているが(「会社の先輩が好きすぎて苦しいです!どうしたらいいですか」とか)、それら全体を俯瞰した「つながりのゲーム」といった視座は、なかなか語られないこととなるだろう(実際こういう概念はある種の仮構で、全体として向かっている方向なんて元々ないのだから、当然と言えば当然ではあるが*5)。



なぜゲーム化されないのか
要約:各個人と各個人の合従連衡、離合集散に関する立ち回りそれ自体を中心としたゲームは、どうもない。
要約:書いている現段階において理由はあまりはっきり予想できない。ひとつの可能性は、仕様設定の難しさ(たとえばいつでも離脱可能な社会関係はゲームとして深みが得られない、行動の自由度が低すぎると勝ちパターンが決まってゲーム全体が陳腐化する、など)。もうひとつの可能性は、人間にとってあまりにコアすぎて楽しめない(カタルシスを与えるに至らず、グロすぎるプレイ体験、人間不信などしか残せない、など)。
要約:SNSは一見似ているが、腹の探りあい、狐と狸の化かしあい、裏切りや派閥形成、みたいなキリキリした離合集散ゲームはあまりそこでプレイされないので違う。人狼のようなゲームは嘘の付き合いというメカニズムはあるが、連合形成のような要素がない。
やっとタイトルの内容までたどり着いた。
私たちが日常で繰り返している各個人と各個人の合従連衡、離合集散に関する立ち回りを巡るゲーム、これはなぜゲーム化されないのか。

つまりネットゲームとして、なぜこうしたコンテンツをメインで扱ったゲームが出てこないのか。

技術的な環境としてはすでにそうしたゲームを作ることは可能となっている。大人数が同時参加して仮想空間上で行動するという(昔から見れば)夢のようなゲームは、いまやまったく珍しいものではない。数百人や数千人といった規模の人間が、同一仮想空間上で同時に行動を行うゲームは、MMO(Massively Multiplayer Online Game)と呼ばれる。

さて、ここでウィキペディアMMORPGの項目から、「ゲーム内での人間関係」について書かれた部分をちょっと抜き取ってみる。

ゲーム内での人間関係
wikipedia:MMORPG
そこには、仮想世界でありながら人間社会が存在する。人対人のコミュニティである以上、社会と同様に派閥もあれば、人間関係のいざこざも存在する。
MMORPGアバターによるチャットシステムから進化したという側面もあり、MMORPGの中でも他者とチャットを行うことが出来る。これは一人でプレイする従来のRPGよりも行動の幅が広まり、プレイヤーの間で自然言語による意思疎通を行う事にも、有意義に作用する。これによりゲーム内アイテムのやり取りの条件、複数のプレイヤーが集まって特定の行動をするなど複雑な行動が可能となるのである。それが続くと自然と「仲の良いプレイヤー」という状況が発生するのである。
MMORPGではチャットシステムに(ゲームごとの違いはあるものの)そういったコミュニケーション手段を支援する仕組みが組み込まれている。フレンドリスト(他のキャラクターを登録しておいてメッセージを送信する)、ギルド(特定の目標を持って組織をつくる)などは多くのゲームで実装されており、さらに複雑なシステムを持つゲームも発生している。
ただし、自然言語でのコミュニケーションはあいまいなものになることも多く、常に十分な意思疎通が行われるとは限らない。特にアイテムの分配などゲームの進行に直接関わることをなし崩しで行うと後になって不満を表明するプレイヤーが発生したり、目立った行動をするプレイヤーに対して本人にわからない場所で「陰口を叩く」ことなどはよくある風景である。

ここで、「派閥」「いざこざ」「仲の良い」「陰口」といった言葉がでてくるが、必ずしもゲーム進行の中枢にあるものとしては扱われていない。つまりそれは半ば「ゲーム外部のこと」、ゲームの本筋とは関係ないこととして位置づけられている。

実際多くのネットゲームは人間関係にまつわるイザコザは、なるべく回避可能になるよう設計されている。相手の発言が見えなくできる「無視 Ignore」のような機能だったり、つきまとい行為や嫌がらせ行為をする人物に対する「アカウント停止」 などの措置がある。

ここで私がいいたいことは、こうである。

「派閥」、「イザコザ」、「陰口」といったもの自体を中心に置いたゲームがなぜないのか?

一番容易にこうしたことがゲーム化されそうなのは戦国シミュレーションだろう。日常レベルの「派閥」、「イザコザ」、「陰口」といったものは、そのまま政治レベルでも相同な現象が多数見つかる*6。たえば・・・


日常レベル:派閥。仲良しグループ
外交レベル:政治連合、経済連合など


日常レベル:いざこざ、もめごと
外交レベル:紛争、戦争など


日常レベル:陰口、悪口
外交レベル:プロパガンダネガティブキャンペーンなど


日常レベル:盗み聞き、詮索
外交レベル:スパイ


しかし、現に出されているそうしたジャンルのゲームは、こうした政治性や、つながりに関する読み合いの側面は、ほとんど言っていいほど何も再現していない。戦国シミュレーションを扱ってきた有名企業といえばコーエーwikipedia:コーエー三国志信長の野望など)がある。しかしコーエーの出すシミュレーション・ゲームでは、社会的なキリキリした側面はほぼ再現されない。どちらかというと物語付きの作業ゲー、パズルゲーのような体裁のゲームシステムになっている(最新の動向は知らないが、そう大きくは変わっていないのではないだろうか)。



なぜゲーム化してほしいのか
要約:単純にプレイしてみたい
要約:そしてプレイを通じてヒトの社会的相互作用に関する現象への理解が深まる。およびゲーム内において生まれたボキャブラリーを通じて現実を逆照射できる。
ゲーム化して欲しい理由は単純である。「やってみたいから」だ。やってみたい理由は、そうしたゲームが多数の人々の間でヤリこまれていく内、新しい戦略が生まれ、多くの言葉が生まれ、そしてたくさんの知識が生まれていくからだ。そうした知識の総体を見てみたいのだ。

そうしたゲームは最低限、以下のような条件を満たす必要があるだろう。

  • 闘争の形式を持つ。(闘争形式でないと面白くない)
  • プレイヤー同士の間に関係性が存在し、その関係性のあり方・遷移の仕方が勝敗に大きい影響を与える。(裏切って敵方に移ること、そして裏切っている振りをして裏切っていないこと、つまり「ダブルスパイ」のような状況も実現可能なこと。)
  • 一定の短時間で勝敗がつく。(娯楽としての要請。所詮ゲームは現実よりは単純化されていてショボいのだから、その分勝敗がすぐ出る、という面白さが要請されるだろう)

こうしたゲームが、サッカーや野球のようなゲームと最も異なるであろう点は「裏切れること」になるだろう。

野球もサッカーもバスケットボールも、敵・味方の人数は固定である。どれだけ敗色濃厚でも、9対9なら最初から最後までその人数でゲームが進行し、そして終わる(例外は反則などでの退場などのみ)。しかしこれは現実の政治闘争や戦争などから見ると、非常に異質な設定である。

戦争などは各国の軍事力ももちろん重要だが、実際の勝敗を決定する最も重要な要因は、そうしたもの以前のもの、つまり各国同士の同盟や相互不可侵条約の締結などがどのように行われるか、そういったフェーズにおいて大勢が決定している。たとえば現代の軍事最強国のアメリカにしたって、仮にそれ以外の国すべてを敵に回したら(つまり「アメリカ」対「非アメリカ全同盟」みたいな状況になったら)、そうした戦いには絶対に勝てない(資源・物資の輸入がすべてストップし、米国内は数ヶ月で干上がってしまうだろう)。こうしたリスクがありえるからこそ、あれだけの軍事力を持っていながらも、今も世界中に諜報網を張り巡らし、内政干渉のようなことをそこら中で日常的に繰り返し続けているのである。

またたとえば社内における派閥闘争などであれば、一方が敗色濃厚になれば、「負け派閥」からは「泥船から人が逃げ出す」がごとく、一気に人が逃げ出し派閥は瓦解していく。だからこそ戦況の先行きに対する情報の流布のされ方自体も、十分に意味を持ったものとして、ゲームの一部を構成するようになる。

追記:「ディプロマシー」というゲームがあった
2014年12月15日追記。ちょこちょこ検索してたら、ある程度 似たような傾向を持ったゲームとして、「ディプロマシー」というゲームがあった(wikipedia:ディプロマシー)。ジャンルとしては「交渉ゲーム」とも言われるようだが、プレイヤーはかなりのドロドロ感を経験するようである。

wikipedia:ディプロマシーより

本作は7人のプレイヤーが第一次世界大戦前の緊張した関係にあるヨーロッパ列強7ヶ国をそれぞれ担当し、ヨーロッパの覇権を巡って争う戦略ボードゲームである。 diplomacy(外交)という単語が示す通り、ルールそのものはごく単純であって、「外交」すなわちプレイヤー同士の取り引きや同盟が、プレイの中核を成している。

(中略)

プレイ時間は4時間ほどにも及ぶ。なお、日本などで本作があまり広くプレイされていない理由のひとつはこの所要時間の長さであると言われている。また裏切り前提の交渉ゲームゆえに、「友情破壊ゲーム」「ゲームサークル崩壊ゲーム」と言う仇名まであり、そのせいで敬遠されるのも原因であるとも言える。

どうもプレイしてると、賄賂*7なども自然発生するようで、心理的な意味で非常に興味深いゲームである。一度やってみたいが、プレイに6-7人(?)が必要で、プレイ時間も数時間に及ぶようで、なかなか気軽にやるのは難しそうである。

*1:実際に社会的比較の神経過程を顕微鏡なんかで見てるわけではない。だが自分の中での経験、また他者の言動、他者の発言や書いた文章などを見ていると、現代のこの国の日常の中で頻出している比較対象テーマというのは、あるていど想像できる。もちろんこうした内容は社会的地位や置かれている文化圏によって、全然ちがったものとなるだろう。ただ内容は違えど、比較があり、上下・優劣があり、その比較結果に対して満足や不満がある、という基本構造は変わらないだろう。

*2:ネット上でこの「優越感ゲーム」という言葉の用例としては、文化系オタクの知識自慢、みたいな現象を指して使うことが多いようである。しかしここでは私はもっと範囲を広げて使っている。その理由は、オタクの知識自慢も、ここにリストしたどの現象も、脳内では共通して使用している神経回路(または共通して使用されているような回路パターン)が多分あるだろう、だから同じ名前でよんじゃっていいだろ、という考えからである。

*3:比較可能でありさえすれば、何事も優越感ゲームの対象領域となることが避け得ない、とさえ言えるぐらいこのリストは際限なく伸びる。「あいつのTシャツのエリはちょっとよれているが、俺のはよれてない」とか「あいつはマンションの4階だが、俺は5階だ」とか「あいつは600円のランチだが俺は800円だ」とかとかとかとかとか(もはや「禁止されていること以外は、すべて強制される」という量子力学の原理さえ思い起こさせる)

*4:他者に対してこうした素朴な属性付けを行うのは、ひとつは子供たちの世界、そしてもうひとつはプライベートな領域でのかかわりであろう。他の多くの場面においては、カネになるか、コネになるか、得られるものがあるか、といった(それぞれの職業、立ち位置に応じた)そろばん勘定に基づく属性付けを、多くのヒトが他者に対して自動的に行っていると思われる(カネも利権も絡まない「プライベート」な領域が現代先進国の多くの大人にどれほど残されているかは、ちょっと興味深い問題な気がする)。

*5:ちなみに一般的な用語としては「人間関係」という非常にぼんやりした言葉が、この「つながりのゲーム」と近い側面をある程度もっている。しかし「人間関係」という言葉は、ある程度心理的に遠い距離にある人との関係、たとえば会社や近所の人などとの関係は指すが、心理的に近い距離にある関係、たとえば恋人などとの関係のことを指すのには一般的にはあまり使われないように思う。

*6:スケールがまったく違うのに現象として似たようなものになるのは、日常のつきあいをやっているのも、外交をやっているのも「同じもの」だから。つまりどちらも同じ「脳」というもので問題を処理しているから、スケールがまったく違ってもかなり似た現象が相同なものとして現れる。

*7:これはゲーム内のシステムとして、賄賂のようなものがある、という意味ではなく、文字通りの意味で、場外で「実弾」が飛び交いうるような状況がけっこう自然に発生しうるようである。