論理はなぜ離散的なのか。

昔からだけれども、実数か論理か、このどちらかが決定的につくりものだと思えて仕方ない。
ラッセルの『論理的原子論』の冒頭を見てみると、そういう葛藤が古くからあったのだろうと思わせられる節がある。
ラッセルの立場に対する批判として「世界を恣意的に切り刻んでる」というような形の批判が結構あったようだが、この批判はある種ホーリズムの観点からの批判なのかもしれないし、連続(であろうと想定している)世界を離散的に近似することへの批判なのかもしれない(たぶんそのどちらもがあったのだろうけど)。
今、こうした議論がどこまで行っているのか、それが気になる。
チャイティンは実数をケチョンケチョンに言っている。そのくせ己のテーマはΩ数というひとつの実数に大きく依存してる。どうも何が言いたいか不明だ。

自分的に

クオリアは世界に関する意味論、論理は世界に関する統語論

論理的原子論の哲学 (ちくま学芸文庫)

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メタマス!―オメガをめぐる数学の冒険

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ちょびっつ

この曲はしびれた。