四つの領域を循環する

生命科学の進歩は「私達が何者であるか(Who we are)」を、もっと有体に言ってしまえば「私達は何か(What we are)」を、レゴブロックの一つ一つをデータ化していくように蓄積していっている。


最近よく考えているのは、この先にある思考の「こんがらがり」についてである。

思考のこんがらがり
生命科学の知見を、単に自己の外部の世界についての知識だ、と考えると楽である。つまり俺とは特に関係ないどっか遠くの世界の話のようだ、みたいに見てしまえば楽である。

また人間を生命体として見るのを、薬剤を開発するときや、医療行為を行うときや、学者として論文を書くときだけだ、みたいに思考の機会を非常に限定された状況だけに自己規制してしまうのも楽である。つまり知識を使用する文脈を、ある特定の文脈だけに限定してしまうのである。

なぜならそのようにしておけば、様々な思考上の混沌や混乱を避けることができるから。


しかし生命科学の知識を、日常と同一地平上にあるリアルな知識として捉えると、即座に多数の問題が表れる。

たとえば現代社会の(私を含む)人々の知的常識の中にあるいくつもの規範的な常識と、強い緊張関係を持つことは、大体誰でもすぐ分かる。

そして多くの場合、この緊張関係の中で、思考することは恐怖され、忌避され、回避される。


しかし私は考えたい。


どんなループか
ここでは、まだ大づかみだが、こうした緊張関係を持った思考を行う中で現れる、ある種のループについて考える。

ここでは混乱が生じるような思考上のループを、たたき台として仮に、以下のような四つのステップに分割することとした。この四領域は、それぞれの個々の範囲内では分かりやすいが、全体を循環させて考え始めると、一挙に思考が混乱する。図にまとめると次のようなループである。

テキストにして書くと、各過程は次のようなものである。

1.神経系のあり方が、思考・行動のあり方を決める。(例:神経科学や心理学一般)
神経系のあり方に応じて、人間は特定の環境下で特定の思考・行動を取る。

2.思考・行動のあり方が、生態系のあり方を変える。(例:生態学、環境生態学など)
人間が取った特定の思考・行動に応じて、社会環境、自然環境のあり方が変化していく。

3.生態系のあり方が、最適戦略のあり方を決める。(例:ゲーム理論、戦略論)
社会環境、自然環境のあり方に応じて、どういう戦略が有効性が高いか、どういう戦略は駄目か、という最適戦略のあり方が変化していく。

4.最適戦略のあり方が、神経系のあり方を決める。(例:進化心理学
最適戦略のあり方に応じて、人間の神経系のあり方が長期間かけて作り上げられていく。

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ここには終わらない循環がある。



他のどんなループと似ているのか:不可能図形
上で書いたようなループ的思考に囚われる感覚は、不可能図形などを見た時に経験する感覚と少し似ている。

ペンローズの三角形」や「エッシャーの滝の絵」などに代表される不可能図形においては、「個々の部分的領域は整合的」であるが「部分を合わせた全体を見ると不合理」であるような描写がなされる。(実際 絵の一部を隠してみると、どちらの絵も整合的な三次元立体にできる。しかしどこも隠さずに全体を見ると、やはり筋の通った解釈ができない絵となる) 私たちは何かを解釈するさい、一般に何か確定的な地点を見つけ、そこを基準にして全体を評価的に見ようとする傾向がある。にも関わらず、こうした絵においては、基準を探して次々と視点をずらしていくと、いつのまにか再び最初の地点にまい戻っており、そうした基準となれるような何らかの地点にたどり着くことは永遠にない。それゆえ「底なし沼にはまってしまった」かのような、または「出口のない迷路に迷い込んでしまった」ような、足元がうわついた、何か奇妙な落ち着かない感覚を経験するのである。これと少し似ている*1


なぜ こんがらがるのか
こうした思考が容易に「こんがらがる」のは、自分の思考それ自体もこのループの中に入っているからである。つまり自己言及的または再帰呼び出しな側面を持っているがために混乱するのである。たとえば「私はなぜこの情報に注目したのか」とか「なぜこの情報に戸惑ったのか」とか「なぜこの論点において、ある特定の終結を期待したのか」といった形で自分自身へ問いを投げることで、己の思考それ自体もこのループの中に位置づけられていくが為に混乱するのである。つまり文字通りの意味で「ひとごとではない」がために眩暈を覚えるのだ。


具体的にどんな例があるのか
これは実際いろいろな例がある。道徳的な問題が、その判断のあり方に依存して、長期間の影響力を持つような場合は特にそれが顕著となるものと思える。

以下、具体例を書きかけ。。。



関連書籍
書き始めてから10日ほどたって、このトピックはダグラス・ホフスタッターの晩年の関心事と近い(かもしれない)ことに気が付いた*2。昔、彼のほんの邦訳を購入して、読み飛ばしただけで、あまり意味が分らず放棄してしまったが、今ならもうちょっと興味深く読めるかもしれない。彼は何か似たようなことを(もっと一般化され、かつ洗練された形で)考えていたかもしれないと思える。

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

I Am a Strange Loop

I Am a Strange Loop

*1:似てはいるけれども、生命に関する現象は「現に起きていること」なので、別に「不可能なこと」を思考しているわけではない。単に「混乱しやすい」というだけである。なのでその点ではこの比喩には少しズレがある。

*2:気がついた後で、M.C.エッシャーの「Drawing hands」の絵を元に、冒頭にある四本の手の図を作った