ちいさいころ 無神論 それでもときに神

僕は小さい頃から無神論的だった。母親は熱心なクリスチャンだったけど、僕は全然だめだった。母親はなにかというと規範や道徳の正当化に神や来世の存在を使った。
母「○○しなきゃだめよ」僕「なんで?」母「だって××」←ここで一種の神話的言質が入る。
僕にはそれが全く受け入れられなかった。最初にこうした理屈付けに批判を行ったのは5才ごろのことだった。僕は地獄の存在を否定するための理屈を作った。それはとても稚拙な理屈ではあったけど、今振り返って大人の言葉で語りなおして見ると、それはこんな感じだった。
「死んだ人間の一部が常にソコに行くような場所、つまり地獄、それが仮にあったとする。そこでは永遠に人は死なないとされる(永遠に苦しみ続ける)。しかしそうすると当然人口は果てしなく増え続ける。だとすると人々をいじめる鬼たちは、いったいどれだけの仕事をこなさなければならないのか?(ここではなぜか仏教的な地獄観がちゃんぽんされている)。鬼一人にこなせる仕事量は有限だろう。ならば新しい鬼が必要である。しかし鬼たちが結婚して子孫を増やすという話は聞いたことがない。するとこの話はどこかおかしい。なぜなら鬼の数はどこかで足りなくなるだろうからだ。ということでこの地獄像にはどこか矛盾があるのであり、ゆえにそうした地獄は存在しない」みたいな。
一種の背理だが、5さいのとき、母にこの理屈をぶつけたら(モチロンもっと子供じみたシャベリで)、非常に悲しそうな顔をされて困った記憶がある。父親(無宗教)は苦笑していた。僕はなぜどちらからも反論が帰ってこないのか、それが不思議でただ戸惑っていた。

そんなシビアな(またはマヌケな)議論を経て育った僕も、今では時に神というものを思う。それは世界があることそのものの謎について考えるときだ。「なぜ私達はここにいるのか、そんなことさえ知らされないまま、私達はここにいる。」パスカルはそんなことをいっていたと思うが、やはり僕もそういうことを時々思う。そしてそうしたとき、どこからともなくまた、神という概念を思う。もちろん僕がこうした時に考える神は(考える。信じる、でなくあくまで考える)、ブラインド・ウォッチ・メーカーという言葉で表されるソレに近い。