頻度依存の不適応


進化生物学で頻度依存選択という概念があるが、http://d.hatena.ne.jp/Chazuke_man/20080508/1210212112で述べた話も、ある程度それに似ている。「社会のあり方」が成員の構成比によって決定されるため、各成員の社会への適応・不適応が同一の形質を持つ人々が社会の中に占めている構成比によって決まってくる、という話だからだ。

こうした状況は僕達の日常の様々な場面でも散見される。例えば右利きと左利きの話。世の中の設備や道具のほとんどは右利き用に作られている。これは単に右利きの人のほうが数が多いから(人口比約90%程度)。しかし左利きの人はこの状況で不便を感じることが多々ある。例えば自動販売機のコイン投入口。大抵の場合、これは機械の右の方にある。これは右利きの人が機械の正面にたって右手でコインを持ったとき最も投入しやすいポジションだからだ。こういう細かい事例は左利きのの人に聞いて見ればやまほど出てくる(僕自身は右利きなので、こうした「右利きの横暴」(←左利きの友人が冗談混じりで使っていた表現)については、話を聞くまで全くといっていいほど気づかない)。もし人々の90%が左利きなら、不便を感じるのは右利きの方になっていただろう。

また別の例が視力だ。一般的に人々の視力は1.0程度はあるものとして、社会が構成されている。そして実際多くの人は、裸眼で、またはメガネまたはコンタクトをつけることによる矯正視力で、1.0程度の視力をもって生活を営んでいる。だから看板の文字の大きさにしろ、標識の大きさにしろ、すべてそうした人々の視力を前提に作られている。

また風習の中にも一定の視力を前提としているものがある。例えば挨拶。広い河川敷で、3km先にいる知り合いに声をかけなくても「無視した、無視された」という話にはならないだろう(というか3km先にいる知り合いに気づくことの方が難しい)。しかし数メートルの距離で知り合いとすれ違ったときに素通りしてしまえば「無視した、無視された」という流れになりがちだ。だが本当に目の悪い人間は、相手が数メートルの距離に近づいてもまだそれが誰なのかが判然としない(僕は目が悪いくせに裸眼で暮らしてるので、こうした困難によく出くわす。そんな僕の日常のほとんどは、推理と予測でカバーされている。この時間帯、この場所で、こういう体型で、こういう色の服を着ていて、こういう動き方をしてるのは、あの人だけだ、みたいな。だから街中で偶然知り合いとすれ違っても、そのことに僕が先に気づく、ということはまずない。)。もし人間の視力が平均して0.1もなかったら、数メートルの距離で挨拶するような風習は生まれていなかっただろう。

ここまで書いて思ったこと。
メガネかけようかな・・・。

↓答え(出典:pyaより)