「地獄への道は善意で舗装されている」

人の持つ「愚かさ」に注目する一貫として、愚かさに関わる言葉を集めていこうと思う。
まず最初の言葉は

地獄への道は善意で舗装されている

はてなキーワードの解説がやたら詳しい。
それによるとこれはイギリス、ドイツのことわざで、1850年ごろに生まれた言葉のようだ。
もちろんことわざなので多様な使われ方をしているだろうが、基本的な意味は、

  • 悲惨な状況の起源を過去へと辿ってみても、そこには人々の善意しかない(悪意は見つからない)

という感じのようだ。日常的な表現で言うところの、

  • 良かれと思ってやったことが、まずい結果を生んだ
  • 善意でやったことが悲惨な結果を生んだ

といった状況を描くのに使われる言葉だろう。
共産主義社会なんかはこうした言葉で描写されるものの一つの典型なのではないかと思う。
人々を貧困から救う、という熱い思いが、
いつのまにか政治収容所が大賑わいする抑圧的な貧困社会を作っていったのだから。
さて、ただ言葉を集めていくだけなのも面白くないので、少しだけ感想文のようなものも付け加えていこうと思う。

でははじめ。
この言葉の中で大事なのは、地獄とは何か、という点と、善意とは何か、という二点かと思う。

地獄とは

地獄とは何か、を問うことは不幸とは何かを問うこと。そして不幸とは何かを問うことは幸福とは何かを問うこと。この一連の問題は大事な問題だと思うのだけど、よく知らないのでリンクを貼って終わりとする。自分としては「薬物摂取によってユーフォリアを体験し続けているジャンキー」について考えることが一つのカギなのではないかなと思ってる(そしてさらにユーフォリアについて考えるには、意識のハードプロブレム、いわゆるクオリアの問題について考えることが不可避になってくるのだと思う)。

善意とは

この文脈における善意とはなんだろうか。これは行動を組み立てる際に、人々を苦しみや困惑から抜け出させる、幸せな状態に持っていく、という意図が先導していた、ということだろう。逆に言えばそれは悪意がなかった、ということ。つまり、行動を組み立てる際に、誰かを苦しめたり困らせたりする意図がなかった、ということだろう。

さて、こちらのブログでは、善意という言葉を「間違い」という言葉で捉えなおしている。
地獄への道は「間違い」で舗装されている - 赤の女王とお茶を

正面からいうとすれば、地獄への道を舗装しているのは善意ではなく「間違い」です。

* 河川を浄化したいという善意そのものは結構。しかしその目的を達成するための方法を「間違え」ると汚染は悪化します。
* 創造的な教育をしたいという善意は素晴らしい。しかし資源の投下やカリキュラムを「間違う」と、いわゆる「ゆとり」教育になってしまいます。
* ベンチャーを促進したいという善意は上々。しかし単に大学院定員を膨らすだけでは「間違い」であって、深刻なポスドク問題を生み出しました。
* チベットの状況を改善したいという善意は否定されるべきではない。しかし「出て行け中国人」はその手段としてどうなのか?

ここで言われている間違いには二つの意味がこめられているように思う。ひとつは特定の理想状態の実現のために、他の状態の悪化を受け入れるのか、という正義に関わる問題。そしてもうひとつは、因果の連鎖の読み間違い、というどちらかというと科学の領域に属する問題。この後者に注目したいが、これはまさにその通りかと思う。しかし因果連鎖の読み間違い、という話からはまた別の論点が出てくる。それは、人は因果の連鎖をどこまで読みきれるものだろうか、という話。僕達の住んでいるこの世界が複雑系としての性質をもつ世界で、かつその中に埋め込まれている僕達の人間のそれぞれの脳が有限の情報処理能力しか持たないのだとすると、逆に因果の連鎖を厳密に読みきれることの方が少ないのではないだろうか、と。予測、バタフライ効果、情報処理能力、帰納パターン認識、といった概念が関わってきそうなこの話だけど、僕にとっては難しい。