我々は自然現象である


我々は自然の一部である。こうしたことは詩的にはよく語られるが、しかしその重みと深さはほとんど考慮されていないと思われる。
私達の体の中で起こっている呼吸、消化、生殖、代謝、これらはすべて自然現象である。それは雲の流れ、カミナリの轟き、空を巡る彗星たちと同じ、自然の現象なのである。

こうしたものの中でも、とりわけよく忘れ去られているのは、私達の脳で起きている神経細胞の発火、つまり思考、判断、そして葛藤、悩みといったもの、これらもすべて自然現象だという事である。
これはあまりに当たり前のことである。しかしほとんど常に忘れ去られている。とりあえず心的な機能の側面に焦点をあわせ、このことを次のように呼ぶ*1



自然現象テーゼ:思考、判断、そして葛藤、悩みといったもの、これらはすべて自然現象である。



例えば私が何かに葛藤を覚えているなら、それはそれに対応する神経回路が(すなわち神経表象が)、脳内のどこかに在るからである。つまり葛藤状態に対応するようなサーキット(の活動)が、どこかに在るのである。

私たちが日常的に使用する心的語彙とそこで使用される説明モデルはフォークサイコロジーなどと呼ばれるが、そうした語彙によって構築される描像をより細かく見て、深く分け入っていくことにより、あらゆる心的機能・活動を、自然現象の一つとして自然の中に位置づけていくことができる。こうした作業は一般に自然化(naturalization)などと言われる。ここではとりあえず心的な機能の側面に焦点を合わせ、自然化という作業を次のように定める*2


自然化:思考、判断、そして葛藤、悩みといったもの、こうしたものを自然現象として自然界の中に位置づけていく作業。


この自然化は再帰的(recursive)に作用する。つまり自然化という作業(「私が今持ったこの知覚は、おそらく私のおでこの下にある前頭葉にある、おそらくこういった回路により実現されてるのではないか」といった思考、「私は自分をモノのように見たくはない。物象化おことわり」といった自然化作業への嫌悪)、これもまた脳内にある何らかの神経回路によって実現されている思考や判断・反応である。それゆえに、それ自身もまた自然現象の一つとして、自然界の中に位置づけられていく。このことを次のように呼ぼう。*3


再帰的自然化:自然化という行為、そして自然化という行為に対する思考や判断や葛藤、それらもまた自然現象である。


つまりここに私がこうしたことを書いているということ、それもまた自然界の現象の一部であり、それを読んで誰かの中で内的に起きた反応、それもまた自然現象のひとつだ、ということである。

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だから何なのか?
これはあまりに当たり前の事とも言える。どうでもいいと言えば、どうでもいい。こうした当たり前の事が役にたってくれるのは、学問的な何かの中というより、むしろ日々の生活の中で現れる個々の思考や葛藤の中においてである。

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ここで書いた自然現象テーゼというのは、仏教における「空」と「縁起」の概念にかなり近い。
そして最後に書いた「再帰的自然化」の概念は、仏教における「空空」(空であるという認識もまた空である)という概念に非常に近い。

*1:これは私の造語である。すでに誰かが別の名前をつけている気もするが、これは自然主義(Naturalism)という名前で呼ばれる立場が取る中心的なテーゼである。

*2:何を自然化するかは色々であるが、この概念は一般的にこう呼ばれている。特に私の造語というわけではない。

*3:これは私の造語である。しかしすでに誰かが同様の概念を使用しているかもしれない。というか多分していると思う。