社会的認知・社会的情動の(私達の心理的生の中における)大きさ

社会的認知・社会的情動の私たちの(または私の)意識的な生活に占める比重の大きさ*1、これに最近ますます自覚的になってきている。私(または私達ヒト)の脳が見せる世界は、ソーシャルな意味によって彩られた(またはソーシャルな意味が主たる構成要素となっている)、ある種の閉じた仮想世界のようなものである。

ヒト(が持つ)の関心を探るために、今日の「はてな」のトップページからホットエントリ(ブックマーク数の多いページ)を適当にひとつを拾ってみると・・・*2

これはどっかの若い女性研究者が人為的操作で万能細胞を作れると報告したが、どうもそれが嘘っぽいという話に関連した議論だけど、さて・・・

このトピックが盛り上がる理由として「<不正な方法による承認の獲得>に対する怒り」というのがあるように思える。これは某「耳が聞こえないらしい楽譜の書けない作曲家」の問題、においても共通して見られる炎上の背景と思える。

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先日ニコニコ動画ランキング1位の動画

我々は「承認を巡る闘争」を生きている。その戦いの中において不当な形で承認を獲得することは、人々の中にある種の怒りを惹き起こす。

こうだけ言うと、何とも文系的、またはただの文学的表現になってしまうが、こういうことが(自分個人として)面白く思える理由は、こうした炎上を引き起こす元となる回路が「脳内にある」ということが推察されること、にある。

つまり、道端に石ころが落ちていても私達は激高なぞしないし、関心も示さない。
しかし誰かが不当な方法(嘘や詐術)によって承認上の地位の向上を企図しているのを見た場合、または知った場合、私達はそのことに対して一定の注意を持ち、そして時にそのことに対し怒りさえ持つ。

それはなぜか?

それはそこに回路があるからだ。

これはすごい適当な返答だが、私達の脳内には、石ころに対しては反応せず、しかし嘘つき作曲家には反応するような、そうした一定の条件にもとづいて情報を処理する回路が(現に)あるのだ。

こうした神経的なサーキットがどういう構造をしているのか、そしてそれがどう発生し、そしてどのように変化していっているのか、そうした詳細は具体的にはまだ良く分からない。しかしそうした「何がしか」があるということ、それが(自分にとっては)実に興味深く思える*3

こうした回路がどのような構造のものなのか、そうしたことを最近よく考えている。*4

関連エントリ

*1:社会的な情報が大きい比重を占めているのは、あくまで「ヒトの意識的な生活」の中において、である。人間を解剖学的な観点から見れば、消化器が臓器の中で一番大きい容量を占めている。それに手足がくっついたのが私たちである。化学的・形態的・系統的側面から見た場合、ヒトは「自立移動型ウンコ製造器」と見るのが一番理解しやすい(失礼・・・でも実際そうでしょう。口と肛門のあいだに胃や腸やら色々がある。そしてそれを機能させるために色々付属物(手足や脳)がついている。人体というのはそう見るのが分かりやすい。付属しているオプションの部分を取り去ってしまえば、私たちの身体的構造は、基本的にミミズみたいなもんです。)。こうして見た場合においては、脳なぞ化学的・構造的に脇役に位置するものでしかないし、社会的認知なんてものはその更に末節に属する、どうでもいいような事象となるだろう。

*2:ここでは一つのエントリーしか扱っていないが(すいません・・・手抜きです)・・・それでも他のホットエントリーであっても、何がしかソーシャルな情動、代表的なものとして承認、そして次に承認に関わる道徳の問題、こうしたものが大きく(またはある程度間接的に)関わっている、ということはおおよそ見てとれる

*3:とりわけ多くの人がそうした回路の存在について言及しない、つまり無自覚である、ということが、(逆に自分にとっては)実に興味深い。(これはこうしたことが取るに足らないものだから、という事ではなく、逆にあまりにも当たり前すぎて、空気のように多くの場合において意識的な知覚の対象とさえならない、つまりそれほど基本的なレベルのものなのだ、ということを表しているように思える。)

*4:このエントリーはぼーっとしながら書いてるのでかなり適当である。しかし私がよく考えるのは、その「実装」のあり方である。人間がどのような認知機能を持つか、つまり人間の認知機能の「仕様」、これは日常的経験からすでに大方わかっている。自分が興味があるのは、個々の具体的機能が、実際にどのような方法で実装されているのか、そうした(マービン・ミンスキー的な)具体的レベルの問題である。