我々は自然現象である


我々は自然の一部である。こうしたことは詩的にはよく語られるが、しかしその重みと深さはほとんど考慮されていないと思われる。
私達の体の中で起こっている呼吸、消化、生殖、代謝、これらはすべて自然現象である。それは雲の流れ、カミナリの轟き、空を巡る彗星たちと同じ、自然の現象なのである。

こうしたものの中でも、とりわけよく忘れ去られているのは、私達の脳で起きている神経細胞の発火、つまり思考、判断、そして葛藤、悩みといったもの、これらもすべて自然現象だという事である。
これはあまりに当たり前のことである。しかしほとんど常に忘れ去られている。とりあえず心的な機能の側面に焦点をあわせ、このことを次のように呼ぶ*1



自然現象テーゼ:思考、判断、そして葛藤、悩みといったもの、これらはすべて自然現象である。



例えば私が何かに葛藤を覚えているなら、それはそれに対応する神経回路が(すなわち神経表象が)、脳内のどこかに在るからである。つまり葛藤状態に対応するようなサーキット(の活動)が、どこかに在るのである。

私たちが日常的に使用する心的語彙とそこで使用される説明モデルはフォークサイコロジーなどと呼ばれるが、そうした語彙によって構築される描像をより細かく見て、深く分け入っていくことにより、あらゆる心的機能・活動を、自然現象の一つとして自然の中に位置づけていくことができる。こうした作業は一般に自然化(naturalization)などと言われる。ここではとりあえず心的な機能の側面に焦点を合わせ、自然化という作業を次のように定める*2


自然化:思考、判断、そして葛藤、悩みといったもの、こうしたものを自然現象として自然界の中に位置づけていく作業。


この自然化は再帰的(recursive)に作用する。つまり自然化という作業(「私が今持ったこの知覚は、おそらく私のおでこの下にある前頭葉にある、おそらくこういった回路により実現されてるのではないか」といった思考、「私は自分をモノのように見たくはない。物象化おことわり」といった自然化作業への嫌悪)、これもまた脳内にある何らかの神経回路によって実現されている思考や判断・反応である。それゆえに、それ自身もまた自然現象の一つとして、自然界の中に位置づけられていく。このことを次のように呼ぼう。*3


再帰的自然化:自然化という行為、そして自然化という行為に対する思考や判断や葛藤、それらもまた自然現象である。


つまりここに私がこうしたことを書いているということ、それもまた自然界の現象の一部であり、それを読んで誰かの中で内的に起きた反応、それもまた自然現象のひとつだ、ということである。

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だから何なのか?
これはあまりに当たり前の事とも言える。どうでもいいと言えば、どうでもいい。こうした当たり前の事が役にたってくれるのは、学問的な何かの中というより、むしろ日々の生活の中で現れる個々の思考や葛藤の中においてである。

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ここで書いた自然現象テーゼというのは、仏教における「空」と「縁起」の概念にかなり近い。
そして最後に書いた「再帰的自然化」の概念は、仏教における「空空」(空であるという認識もまた空である)という概念に非常に近い。

*1:これは私の造語である。すでに誰かが別の名前をつけている気もするが、これは自然主義(Naturalism)という名前で呼ばれる立場が取る中心的なテーゼである。

*2:何を自然化するかは色々であるが、この概念は一般的にこう呼ばれている。特に私の造語というわけではない。

*3:これは私の造語である。しかしすでに誰かが同様の概念を使用しているかもしれない。というか多分していると思う。

「なぜ勉強するのか?」

少し流行しているので、書いてみる。学ぶ理由/学ばせる理由、7つ。




1. 承認をめぐる闘争(威張るため、バカにされないため、知ったかぶるため、有名大学に入るため、有名企業に入るため、お金持ちになるため、等々)
この点については「なぜオシャレするのか」「なぜ5万円もするバッグを持ちたがるのか」「なぜ500万円もする車に乗りたがるのか」といった話と似ている。要は「他者のまなざしの中で、オレはこう見られたい」という話である。まなざしの中で、己の位置を向上させる、そのための手段の一つが「お勉強」である。就ける官職がなければ○○人は3年以上勉強しないとか何とかはそういう話である*1

2. 家畜へ向けての調教(よく仕付けられた犬は可愛い、しかし調教されていない野良犬は危険であり「駆除」すべきである、愚かさは罪だ、等々)
ケチケチで強欲であることで知られる、あの国家というものが、タダで与えてくれる高級サービス「義務教育」。なぜタダかと言えば、これが調教だからである。「野生の人間」を、「害のない家畜」へ、「少しは役に立つ家畜」へと調教するのが教育というものの一側面だからである。これは学ぶ者の周囲の人間が持つ動機である。つまりおまえがバカであっては、周囲の俺(達)が困る、という話である。*2

3. 思考時間の強奪(どうでもいいことを考えるな、悪巧みするな)
若者を親のいない環境で、長時間自由に放置しておくと、群れて、喧嘩し、悪だくみし、セック○し、そして暴徒化する。コンクリート・ジャングルに産み落とされた、言葉をしゃべる野生の人間の誕生である。これは危険である。だから認知負荷のある作業を与え続けて、思考時間を奪うのが大切である。これが義務教育のもう一側面。ここでは、どういう情報の処理で脳というCPUに負荷をかけるかは重要じゃなくて、負荷をかけつづけること、それによって他の思考タスクへ計算資源が大幅に割り振られることを予防するのが大事である。だから因数分解を教えててもいいし、般若心経を写経させててもいいのである。

4. 退屈からの逃走(人生は何もしないには長すぎる、しかし何かをするには短すぎる、とはいえ何とも退屈だ、暇だ、あぁ困った、何をしよう、どうしよう)
人生はおおよそ退屈である。しかしいわゆる「遊び」は金がかかる。エネルギーもいる。時間と場所も選ぶ。しかしこの点、学ぶことは実によい気晴らしであり、趣味である。そこには興奮もあるし、葛藤や、進歩、変化もある。それでいて、ネットのある現代であればお金もそうかからない、時間や場所もそう選ばない。どこに住んでいても学ぶ事はできる。なんせとりあえず本一冊、または最悪 自分の頭ひとつあればいい、だけなのだから。ある意味、学ぶことは趣味の中の趣味、「キング・オブ・趣味」と言えるかもしれない。

5. 同胞の製作 (エイリアンとしての子供、同胞としての成人、オレと同じ世界をおまえに見せたい)
言葉を学び共有する、物語を学び共有する、歴史を学び共有する、それによって子供たちは「私達」の一員となる。この世界に突然現れた来訪者、そんな子供も、時を経てやがて「我々」の一員となる。エイリアンを同胞へとつなぐのが「学び」である。私が見ているように、その子もいま世界を見ている、ならば、その子は私たちの一員である。

6. 人は生まれながらにして、知ることを欲す(なんで、ねぇ、なんで)
「ねぇ、なんでお母さんにはおちんちんがないの?」、「ねぇお父さん、右目だけでお父さんが見えるよ、左目だけでもお父さんが見える、でも両目で見てもお父さんは一人だよ、なんで?」 それを知ったからといって、どうとなるものでもない、しかしとにかく知りたい、そういうことが、多くある。

7. 学びは旅である (あてどなき旅、初めての出会い)
学んでどうなるかは分からない。それは旅や出会いと同じで、あとで振り返って、それは重要だった何か(またはどうでもよい事だった)と分かる。事前には分からない。神経系にあるインプットを与える、それがあなたの脳に何の変化を生むか・生まないか、それはやってみないと分からない。学びは強制的に与える刺激の一つであり、自分を探索するためのプローブなのだ。それが後になって何をもたらすか・もたらなさいか、それは後になって振り返ってみて初めて分かる。

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8. (番外)おまえは無知である (君が知らないことを知っている人間が「実在する」、不知の自覚)
教育のもうひとつの重要な要素を忘れてた。それは「おまえは無知である」ということを徹底的に相手に知らしめるための儀式としての側面だ。公的教育は、劣等感とトラウマを引き起こす恥辱の経験の連鎖の中で、強制的に生徒に無知を自覚させていく。同時に、自分がまったく理解できないようなことを、明晰に理解している人間が「実在している」という事を、腹の底から納得させていく。このことが、知の専門家というものの権威を下支えしている。このことにより、「私が今言っているこの事は、本当だ。間違っていない」、こうした事を、ひとりひとりのなかなか納得しない人に向かって、専門家が何度も何度も説得と証明を繰り返すといった無駄な手続きコストが減る。「私は○○大学でこの分野の教授です」とか言えば、話は終わる、または終わってしまう、のである。

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9. (個人的動機)私は死ぬ (世界を知りたい)
2013年11月03日追記。個人的動機が書いてなかったので、書く。個人的には学ぶこと、理解することには、ぼんやりとではあるが、それなりにはっきりとした動機がある。それは私はやがて死ぬということから来る衝動である。私はそう遠くない将来に死ぬ。およそあと1万日ほどで私は死ぬ。つまりあと1万回ほど寝て、起きたら、私は死んでいる(これは別に私がいま何か大きい病気をしているということではない。もともと人間という生物は寿命が2万日ほどしかない生き物なのだ。私はものごころついた時から、死ぬまでの日数を計算しては「短かっ!」と焦ることをよくやっている。ちなみに今もやっている)。

自分が生まれ、やがて死ぬ、そのことが自明であるときに、何が満たすべき欲求として意味を持つだろうか、小さいころにそうしたことについてときどき考えた。自分に備わっている様々な欲求・衝動について、なぜそれがあるのか、そしてそれらを満たすことにどういう意義がありうるのか、といったことを考えた。お腹がすくのは栄養を摂取するため、寂しくなるのは仲間を取得し維持するため、寒さを嫌うのは体を守るため、等々。ぼんやりとした進化心理学のようなものだ。小さいころにそうしたことをよく考えた。そしてそのころに思ったのが、別に欲望なんて満たす必要ないじゃないか、つまり幸福を目指す必要なんてどこにもないじゃないか、ということだ。つまり欲求というものには基本的に充足すべき理由/それを満たさなければならない理由というのが特にないじゃないか、と。

大人になるにつれ、欲求の優先順位は、おおよそ埋め込まれている小社会の中の承認上の地位の充足という目標を最上位に、年を経るにつれて序列化されていく。お金、仕事、出世、つきあいなど、大人の社会で「大切にすべき」「優先されるべき」とされている多くの事柄は、そういうソーシャルな欲求・衝動・恐怖に根を持つ*3。しかしこれとて「だからなに?」と考えれば、実際どうでもいいことなのだ(これはこうしたソーシャルな欲求が容易に無視できる他愛もない衝動だ、という意味ではない。むしろそれは非常に耐え難い苦痛やこの上ない充足感を与える最大の源泉である。しかしにも関わらず、適応上の非常に大きい役割を持っており、かつ相当に強烈な主観的意識経験を与える源泉でありつつも、そこから何か外に特に出ていくわけでもない、という意味においては、それでもどうでもいい事だと言われれば、実際かなりどうでもいいことだ*4

このことは「飢え」や「寒さ」を無視することが困難であると言っても、人生の目標として「空腹を感じる瞬間がゼロになるような生活リズムで一生を過ごすことを目指す」とか「温度が完全にコントロールされた暖かい場所で一生を過ごすことを目指す」と言われると馬鹿げて聞こえる、といったことと似ている*5

そうした様々な欲求・衝動が自分に備わっている中で、考えてみるとどうでもいいよなと思える衝動が多い中で、唯一「まあアリかな」と思えたのが、知的好奇心を満たすこと、世界について知ること、だった。好奇心がなぜあるのかはおおよそ分かる。環境・状況についての情報を把握し、危険を避け、状況をコントロールし、効率的に資源を獲得していくための道具だろう。

続く。。。。


「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

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承認をめぐる闘争―社会的コンフリクトの道徳的文法 (叢書・ウニベルシタス)

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監獄の誕生 ― 監視と処罰

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暇と退屈の倫理学

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子どもは小さな哲学者 合本版

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*1:これは身も蓋もない話である。だけど、「なぜ(お)勉強しなくちゃいけないのか」という子供に問いに「なんとかして何かを答えねば」と戸惑うのは、この理由がほとんどと思う。親としての本音としては主に4つあると思う。1.「お前に偉くなってほしい」「お前には周囲から浮いてほしくない」(これは基本的には言える。しかし自分の子供だけ偉くなればいいの?みんな死ぬって言ったら僕も死ぬの?的な不条理と向きあうことを避けたい場合、このことはなかなか言えない)2.「今の日本において、学歴を得ることは偉くなるための手近な手段である」(これは言えなくもない。しかし学歴社会という現にある不条理と向きあうことを避けたい場合、このことはなかなか言えない)3.「お勉強の内容は、インプットに必要な手間と比べてみると、実際にはほとんど無意味である。学校を出たら知らなくてもまず困らない」(これも言えなくはない。しかしあまりにも大々的に無意味なことが行われているという不条理と向きあう事を避けたい場合、このことはなかなか言えない)4.「しかし有意味と思ってもらわないと、おまえは勉強しないだろう」(これはなかなか言えない。事実を伝えたら、相手に勉強に打ち込んでもらいたいという目的が達せられないからである)。以上の4つのことが混ざり合った結果、違う方法で相手に伝えようとする、つまり別の物語りを作って目的を達成したいという選択肢が浮上する、そして更には伝えようとしているこちら側も、真の動機を忘却して作った自分で作った物語に埋没したい、という誘惑に駆られる。この自ら製作した物語への埋没と、真の動機の忘却が完璧に達成された時、はじめて「勉強すべきである」ということが、規範として立つ。根本動機の忘却が、道徳を構成する重要な要素のひとつであるのだから。

*2:政治的にはこれは洗脳としても行われる。こうした点においては、主に国家権力を正統なものと認識させ、どんな圧制を強いても反抗しない従順な国民を作成すること、それが教育上の課題となる。これは政治的に非常に重要な課題であり、もしこうした教育に失敗すれば容易に暴動が発生し、支配体制は長くは続かないこととなってしまうだろう。とはいえあまり詳細な知識を与えすぎると、それまた国民が知恵づいてしまって、安定して いい加減な統治を行うのが難しくもなる。だからある程度の知識は与えつつ、深い知識は与えない、いわばゆとり教育のような方向こそ、統治上の観点から見た場合の理想の教育であろう(たとえば「民主主義」などといった概念は教えても、支持不可能な形で政府が独裁を始めた時の革命の起こし方、革命を起こすための組織の作成方法、世論を動かすためのプロパガンダの様々な方法、気に食わない政治家の暗殺の仕方、といったCIAの(一部の)スタッフなら確実に学んでいるであろうような政治行動上のエッセンシャルな知識であっても、そうした知識が国民一般に順序立てて教えられたことは、今まで存在したどんな政治体制下でもおそらく一度もないだろう。)

*3:ちなみにこれは恐らくある程度は男性的なものである。女性的には美容、健康、安全、愛といったものと関わる衝動がおそらく相対的にではあるがいくぶん優先順位が高いのではないだろうか。女ではないので内観的に理解できるわけではないし、男の心理が理解できるように女の心理が理解できるわけではないので、はっきりとは分からない。しかしオスを捕まえ安全な環境で子供を育てる、という行動パターンをメスの雛形として考えればそうなるよう思える。とはいえ、ちょっとした重み程度の違いで、個人間での分散も大きいものだろうとも思える。こうした性差や個体差に関する話は、最終的には神経回路の構成・状態についてのはっきりとした統計的なデータが出てくるようになってきて初めて、地に足の着いた確実な議論ができるようになっていくだろう。

*4:哲学者、求道者、出家者などと呼ばれてきた人たちの中には、かなりはっきりと、こうした社会的な欲求に対して「逆張り」を行ってきた者たちが見て取れる。西洋哲学の歴史の中で古く有名なのはディオゲネスがそうである。あえてみすぼらしい所に住み、あえて人が羞恥心から為さないことをやってみせる、というスタイルである。wikipedia:ディオゲネス (犬儒学派)

*5:ちなみにこうしたことは、思考実験としてはノージックの経験機械 experience machine のような話と関連してくる。脳内麻薬の分泌量が最大化されるような入力を脳に与えるようなバーチャル・リアリティの中で一生を過ごすことの是非を問う、というタイプの思考実験だ

「昔の人は自分の頭でものを考えていた」

「昔の人は自分の頭でものを考えていた」

「ΩΩΩ<ナ、ナンダッテー!!」


最近こういう時代が来るように思えてきた。電卓やパソコンの登場で、面倒な計算は機械がやるのが常識的になった。やがては考えることも機械がやるのではないかな、と思える。

思考が神経系の活動であり、それがどこへでも移植可能なものなら、その実行は別に脳でなくてもいい。

どうしても自分の頭で考えざるを得ないことは、筋トレや排尿と同じようなタイプのものになると思う。筋トレや排尿は、誰かが「オレやっといてやるよ!」と親切に肩代わりしてくれても意味が無い。それは「この身体で」やらなければ意味が無いことだから。

とある疑似科学を倒す方法2 「おまえの脳を見せてみろ」

疑似科学も含め、実はあらゆるタイプの「変な」思考を完膚なきまでに倒せる(だろう*1)方法がある。



それは論法や証拠、議論の方法云々といったものではなく、


技術的な未来の話だけれども、ある程度の未来において常に使えることになる(だろうと思われる)こういう応答である*2



「いいたいことは分かりました。とりえあえず、あなたの脳を見せてください」



もし何らかの願望思考や自己欺瞞、また決定的な知識の欠落などが内的に存在するなら、


それに対応したそれなりの神経表象を脳内で見つけることができるだろう。


つまり、なぜ、ある人物が(例えばこの私が)、ある種の主張(たとえばこんな下らない話)をしているのか


その事は、その誰か(つまり私)から説明を期待する必要はなく、


その人の脳(私の脳)をリバース・エンジニアリングして、コンピューター上でシミュレーションしてみればよい。


そうすれば、なぜその人の口(私の口)から、そうした言語列が発せられるのか、そのことが細部にわたるまで理解可能となるだろう。


ここではどんな言い訳も取り繕いもできない。


もし滑稽な主張がまっとうな思考過程から出てきていることが確認できれば、こうした技術的方法は人々に強い説得力を示す、新しい有効なツールとなるだろう。


逆に自己欺瞞や嘘は、その連結された背景まで含めて、本人も明示的に理解してない部分まで把握できてしまうことになるだろう。


ここで人は一番見たくないものを見る。


自己である。





ひゃ〜怖いわ〜(T_T)



似たような話「体重計に乗ってみろ」

A「わわわたし、そんなに太ってないから!そ、そもそも、そんなに食べてないし」
B「いいたいことは分かりました。とりえあえず、体重計にのってください」


A「ご、ごめん、実は昨日、食後にちょっとケーキを食、食べた。ででで、でも一口サイズだから。」
B「いいたいことはよく分かりました。とりえあえず、体重計にのってください」


A「いやいや、結構運動もしてるよ。まあウォーキングっていうかね、近所のコンビニまで、歩いて行くみたいななな。だ、だ、だ、だから、ぜんぜん大丈夫だよ!」
B「いいたいことはよーく分かりました。では、体重計にのってください」



ひゃ〜怖いわ〜(T_T)

これはメガンテである

他者の思考について理解すること、それは他者を理解しそして破壊することである。しかし同時に、それは己の思考を暴き、そして破壊することでもある。疑似科学を本気で叩くとき、その刃は己にそのまま振りかかる。他者だけを切れる刃などというものはない。どんな刃も、それが鋭利であればあるほど、その切っ先はそのまま己に向けて振り向けられる。真の攻撃とは常にメガンテである。

*1:この方法は合理的であること、整合的であること、知に対する規範を守ろうとすること、などを徹底して拒否する人にはたぶん通じない。それでも、そうした場合においても、本人以外の周囲の人にとっては、その人が思考がどのように、またどういう意味において、ケッタイなものであるか、そうしたことについては細部まで確認できるはずである

*2:この方法は現時点でも、即効性という点では弱いけれども、使えないわけではない。「あなたの主張はたいへん面白いものです。しかし私のような愚人にはその内容が高尚すぎて理解できません。そこで人類の未来のために、ぜひあなたの思考を保存・共有していただけないでしょうか。つまり、死後あなたの脳を解剖させてください。そうすれば、それをデータとして保存し、後世のリバースエンジニアリングに託します」と。

とある疑似科学を倒す方法

疑似科学に対して、「それがどうおかしいか、どういう問題点があるか」という情報を正面からマジメに発信していくタイプの活動がある。「おかしな代替医療にはまるとお金と時間だけでなく、子供の命まで危ないですよ!」というタイプの情報である。

個人的には好きである。

しかし如何せんこういう話は、その発話を届けたいと想定されている当の対象読者たちには、なかなか届かない。

もともと科学リテラシーがない人に「科学の言葉」で事実を語ってしまってるのだから、まあ、仕方がないのである。

これは、英語が読めない人に、「英語で書かれた英会話入門書」を渡す、というようなものである。


ならば!


逆に



「いかに科学リテラシーのない人達がいいカモなのか」



これを全面に押し出した実用書を多数出していけばどうだろう?


  • 『これで稼げる!成功の法則。科学無知な人たちこそが最上顧客だ』
  • 『科学無知の人の貯金は君のもの。すぐ始められる霊感商法!』

こういう本が書店にたくさん平積みされてれば、相当に科学無知な人でもさすがにジワジワと分かるだろう。これはやばいと。

クオリアは自然数における円周率パイ(のようなもの)である─構造は存在に届かない─


2年ちょっとぶり、いきなりブログ更新する。

存在と意識について色々考え、自分の中で、共通する同根の点が分かった(ような気がする)。



クオリアや存在というのは、自然数の体系の中における円周率パイのようなものである。




円周率パイというのは、ある。妄想や空想のモノではない。中学校(小学校?)で習うありきたりのアレである。

それははっきりとある。最初の数桁を書けというなら 3.14...。おなじみのこれである。直径に対する円周の比として、確固として、ある。

にも関わらず、そこへは自然数からの有限回の操作で到達できない。つまり

自然数は(有限回の操作では)超越数に届かない。」

要は自然数というのは「粗い」のである。ビッチリとモノサシの上を覆いきれるように思えるが、その実、自然数たち(の有限回の加減乗除の組み合わせ)によって作られる数の集まりなんてものは、スッカスカで穴だらけということだ。
パイさんから見れば、こんなもんだろう。
自然数たちが作る世界ってマジで隙間だらけwww自然数ショボすぎwww」



ピタゴラス教団において、正方形の対角線の長さ(√2)が、整数の比で表せないということが、タブーであり、発狂を産みうるものだった、などと言われる。
ある種の伝説によれば、正方形の対角線が整数の比で表せないことを主張したものは、暗殺されたとか。
√2さんから見ればピタゴラスの主張は、こんなもんだろう。
「どんな数も整数の比で表せるとか、ピタゴラスさん、嘘つきすぎw そんなこと言うなら、ねぇ、オレは?オレはどうなるの?ねぇ、ねぇってば」

つまり
「どんな自然数の組み合わせの比も√2には届かない」




で、こうした事例と似たような状況が「世界の物理的記述」と「存在」または「意識」の間にある(と、いま私は考えている)。

まだ自分の中で散文的にしかまとまってないので、散文的に書くが、これは


カント的に言えば「存在はレアールな述語ではない」であるし、

ハイデガー流に言えば「存在は無である」となるし、

ラッセル流に言えば「物理学による世界の記述は因果的骸骨である」ということになるし、

ウィトゲンシュタイン的に言えば「語りえないことについては沈黙せねばならない」ということになるだろうし、

永井均風に言えば「<私>や<今>についての記述は、累進構造を通じて常にしぼませた形で理解することができる」となる。

自分流に言語化すれば、

「関係性についての記述は、その実現様態について何も語らない。」

「言語は現実に届かない」

「情報は実在に届かない」

「構造は存在に届かない」

といった風に今理解している。



で、

「なぜこういう事になっているのか?」

それは

「分からない」

何故かは分からない、だがどうもそうなっている(と思われる)。

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と、ここまで書いて気づきましたが、当たり前と言えば当たり前のこと、でしかないですね。
言語や記号による表現というのは、一現象であり、そこにはある種の限界があるんだろうねー、っていうだけの話でしょう。
「示されうるけど、語りえないもの」というのが色々ある、という。

しかしこの

 【「示されうるけど、語りえないもの」がなぜ語りえないのか】について語り得たら

面白いのになー、と思う。そういう事はできないんだろうか。


比喩的に言ってみると、、、

有理数ではない数」があるんだ、ということは無限回の操作を含むカントール対角線論法のような方法を用いることで示されうる。

またはもっと単純に、あらゆる多項式は解を持つはずである、と前提してしまえば、「有理数でない数がある」という事は容易に示されうる。*1

でも「じゃあそれはどんな数か書いてみろ」と言われても、それは有理数を用いては(ストレートには)書けない。つまり語りえない。

「示されうるけど、語りえない」


マリーの部屋の思考実験は、ある意味でそういう形になっていると思う。無限の知識(または完全な知識)という概念を含む状況において、情報に還元できない何かがそこで示唆される。けれども「じゃあそれは何なのか言ってみろ」と言われても、それを情報として切り出すことができない。

ここもまた「示されうるけど、語りえない」の形を取っているように思える。

こういうことがスッキリ理解できたら面白いのに、と思う。ただ自分にはうまく分からない。

*1:「あらゆる多項式は解を持つはず」と前提すれば、 たとえば x^2 - 2 = 0 は「有理数でない数がある」と言うことを示唆する。しかし「それはどんな数か書いてみろ」と言われても、有理数として書けない。

二つの問い


世界には様々な問いがある。そうした問いの中でも、最も究極的と言える「問い」は何だろうか?
そう聞かれたら、僕は次の二つを挙げる。

  • なぜ世界はあるのか
  • 意識とは一体何なのか

ハイデガーは前者の問いを「存在の問い」と呼び、後者の問いをチャーマーズは「意識の難しい問題」と呼んだ。

関連動画

私たちの知る宇宙の全体

宇宙ヤバイ!!